ラップランド戦争

































ラップランド戦争

German withdrawal from Finland 1944 and 1945.jpg
ドイツ軍のフィンランドからの撤退、1944年。

戦争:第二次世界大戦

年月日:1944年9月15日 - 1945年4月25日

場所:フィンランド、ラッピ県

結果:フィンランドの勝利、ドイツ軍はノルウェーへ撤退
交戦勢力

フィンランドの旗 フィンランド
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦

ナチス・ドイツの旗 ナチス・ドイツ
指導者・指揮官

フィンランドの旗 ヤルマル・シーラスヴオ
フィンランドの旗 アーロ・パヤリ
フィンランドの旗 エルンスト・ルーベン・ラガス

ナチス・ドイツの旗 ロタール・レンデュリック
ナチス・ドイツの旗マティアス・クロイトラー(ドイツ語版)
ナチス・ドイツの旗アウグスト・クラカウ(英語版)
戦力
75,000[注 1][1]
214,000[注 2][1]
損害
戦死774
行方不明262
負傷2,904[2]
戦死約1,000
捕虜約1,300
負傷約2,000[2]

ラップランド戦争



  • (冬戦争)

  • (継続戦争)

  • タンネ・オスト

  • トルニオ

  • ロヴァニエミ






ラップランド戦争(ラップランドせんそう、フィンランド語: Lapin sota、スウェーデン語: Lapplandskriget、ドイツ語: Lapplandkrieg)は、1944年9月から1945年4月にかけて、フィンランドとナチス・ドイツとの間で、主にフィンランド北中部のラップランドで行われた戦争。1944年9月19日に、フィンランドはソ連とモスクワ休戦協定を結んで、ソ連との継続戦争を終了させたが、この休戦協定には、フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して抑留することを要求した条項があった。当初は、平和的であったラップランドのドイツ軍の撤退は、10月になり、トルニオで本格的なフィンランド軍とドイツ軍の戦闘が発生すると、以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を行いながら、ラップランドからノルウェー北部へ撤退した。この為、ラップランドの多くの街は灰燼に帰した。最後のドイツ軍兵士がフィンランド領を去ったのは、1945年4月である。




目次






  • 1 背景


  • 2 バルト海の戦闘


  • 3 ラップランドの戦闘


    • 3.1 1944年秋の動き


    • 3.2 初期の戦闘


    • 3.3 さらなる戦闘


    • 3.4 ドイツ軍のノルウェーへの撤退




  • 4 影響


  • 5 脚注


  • 6 出典


  • 7 参考文献


  • 8 関連項目


  • 9 外部リンク





背景



ドイツとフィンランドは1941年6月以降、継続戦争で同盟してソビエト連邦と戦っていた。1943年夏、ドイツ国防軍最高司令部はフィンランドのソ連との単独和平合意という不測の事態に備え計画を練り始めていた。ドイツ軍はペツァモ州[要リンク修正]の近くのニッケル鉱床(英語版)を守るために、兵力を北方に移動させる計画であった[3]


1943年冬から1944年の間、ドイツ軍は捕虜の労力を用いてノルウェー北部とフィンランド北部の間の道路を整備した[4]。多くの捕虜が南ヨーロッパで捕虜にされており、夏の軍服を着ていたため、この強制労働で捕虜の間に多くの死者が出た。ドイツ軍はさらに防御の陣地を調査、フィンランドからできるだけ軍需品を運び出して撤退の準備を注意深く進めた[5]。1944年4月9日、ドイツ軍の撤退計画はビルケ作戦(英語版)と名付けられた[5]。6月、ドイツ軍は敵軍が南から進軍してくることに備えて要塞を築き始めた[6]。6月23日にエデュアルト・ディートル上級大将が事故で死亡したため、ロタール・レンデュリック上級大将が第20山岳軍の指揮を執った[7]


1944年8月初にフィンランドの大統領がリスト・リュティからカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムに変わったことで、ドイツ軍はフィンランドがソ連と単独講和しようとしていると確信した[8]。フィンランドが停戦を公表すると、ドイツ第20山岳軍は大急ぎでビルケ作戦を開始、フィンランドから軍需品を運び出した。大量な軍需品がフィンランド南部から運び出され、撤退を阻む者は厳罰に処された[9]。フィンランドの第3、第6、第11師団、機甲師団(英語版)、第15師団と国境猟兵旅団がドイツ軍と戦うために移動した。



バルト海の戦闘



1944年9月2日、フィンランドがドイツにフィンランドとソ連の停戦を通告すると、ドイツ軍はフィンランドの海運船を拿捕し始めた。しかし、フィンランドが全ての船にドイツへの航行禁止に踏み切り、ビルケ作戦の軍需品運び出しがほぼ停止したためフィンランド船を拿捕する政策は撤廃された。この政策が撤廃されると、フィンランドはドイツの撤退を早めるためにフィンランド船の使用を許可した[10]。1944年9月14日、ドイツ軍はソビエトの海上輸送に対処するためだとしてフィンランドの水路にはじめて機雷を設置した。このときにはフィンランドとドイツが公開に戦争状態にあったわけではないため、ドイツ軍はフィンランドにその目的について警告を発した[11]


1944年9月15日、ドイツ海軍はタンネ・オスト作戦でゴーグラント島を奪取しようとした。フィンランドはすぐにフィンランド船を連合撤退行動から脱退させた。最後のドイツ護送船団は1944年9月21日にケミを発ち、潜水艦と(オーランド諸島の南で)ドイツの巡洋艦の護送を受けた[12]。ゴーグラント島上陸の試みの後、フィンランドの沿岸砲台は命令を受けて9月15日にウト(英語版)でドイツの機雷敷設艦によるバルト海侵入を防いだ。しかし、翌9月16日には重巡洋艦プリンツ・オイゲンと駆逐艦5隻で構成されたドイツ海軍の派遣隊がウトに到着、フィンランドの152mm砲の射程外にあることを維持しつつ、砲撃すると脅すと、フィンランドは流血を避けるべく機雷敷設艦の通過を許可した[13]


1944年9月30日、フィンランド軍の上陸作戦が開始、フィンランドの輸送船3隻(ノルマ(Norma)、フリッツ・S(Fritz S)、ヘスペルス(Hesperus))が護衛艦のないままオウルを発ってトルニオに向かった。輸送船3隻は10月1日にトルニオに到着、妨害のないまま兵隊を上陸させた。第2波の船4隻が10月2日に、第3波の船3隻も1隻がドイツの急降下爆撃機により軽く損傷しただけで全ての兵士の上陸を成功させた。10月4日、悪天候によりフィンランドの上空援護用航空機がトルニオに到着できなかったため、輸送船の第4波がドイツのJu 87急降下爆撃機(シュトゥーカ)の攻撃を受け、港の隣にいるボレ(Bore IX)とマイニンキ(Maininki)が撃沈された。10月5日の第5波は陸上からの砲撃と空中の爆撃を両方とも受けたにもかかわらず、榴散弾による軽い損害しか受けなかった。第6波とともに到着した砲艦のハメーンマー(英語版)ウーシマー(英語版)VMV級哨戒艦(英語版)のVMV 15とVMV 16はトルニオでドイツのFw 200によるHs 293を使用した攻撃に遭遇したがドイツの攻撃は失敗した。海軍艦艇が到着したことで、フィンランド軍は重装備を揚陸することができ、トルニオの戦いで大いに役に立った[14]


ノルウェーなどドイツの占領下にある港ではフィンランド船の海員が拘禁され、ドイツの潜水艦がフィンランドの民用艦を数隻撃沈した。ほかにはフィンランドの機雷敷設艦ロウヒ(英語版)もドイツの潜水艦に撃沈された。フィンランドとソ連の停戦により、ソ連海軍はフィンランド海岸を通ってドイツがフィンランド湾で設置した機雷原を素通りすることができた。その結果、フィンランドの多島海にいたソ連の潜水艦はバルト海南部におけるドイツの輸送船に攻撃することができた。



ラップランドの戦闘


フィンランドとソ連の停戦協定により、フィンランドはドイツとの外交関係を断絶、公式に全てのドイツ軍が1944年9月15日までにフィンランドから撤退するよう要求を出さなければならなかった。その後も残ったドイツ軍の部隊は武装解除してソ連に引き渡さなければならなかった[15]。しかし、ビルケ作戦における努力にもかかわらず、ドイツ軍が期限内に撤退することは不可能であり、フィンランドはドイツ軍の撤退に3か月を要するとの見積もりを出した[16]。しかも、ソ連が同時にフィンランド軍の大半の武装解除も要求したため[17]、それを行いながらドイツ軍と戦うことは困難を極めた。トルニオ地域の住民を除き、ラップランド住民のほとんど(合計168,000人)がスウェーデンとフィンランド南部へ疎開された。疎開は戦闘が始まる以前にドイツ軍とフィンランド当局が協力して行った[18]


ソ連の要求を受け入れると決断する前に、フィンランド大統領カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムはアドルフ・ヒトラーに手紙を書いた。彼は手紙で「過去の数年において、私たちがドイツ軍を侵略者や圧制者として扱うことを導いた出来事はなかった。私たちはフィンランド北部におけるドイツ軍の現地民と当局に対する態度は私たちの歴史に正しく誠意を持った関係のユニークな例として書かれると信じています。今回の戦争が勝利の冠をあなたにもたらすことがなくても、どのような形であれドイツという国は今後も存続するでありましょう。しかし、たった400万人のフィンランドでは敗戦で国自体が亡くなってしまうことは十分ありえます。私は我が人民を戦争から連れ出すことを自らの責務であると考えています。私はあなたが寛大にもフィンランドへ与えた武器をドイツ人への攻撃に転換することができませんし、そうすることもありません。私は、たとえあなたが私の態度を非としたとしても、私と全てのフィンランド人と同じように、事態を重大化せずに以前の関係を打ち切るよう望み、努力することへの望みを保持しています。」と書いた[19]



1944年秋の動き


フィンランドが国の荒廃を避けたかったことと、ドイツが戦闘を避けたかったこともあり、両国とも撤退をできるだけスムーズに進めようと思った[20]。1944年9月15日までにはドイツがフィンランドに撤退の予定表を告知する代わりに、フィンランドがドイツに道路、鉄道、橋の破壊を許すとの秘密協定が締結された[21]。しかし、実際にはドイツによる破壊とソ連によるフィンランドへの圧力により緊張が生じ、両軍の間にいくつかの事件が起きた[22]。フィンランドは第3師団、第11師団、第15旅団を海岸線に、第6師団と機甲師団(英語版)をプダスヤルヴィに、国境猟兵旅団をフィンランド東部に配備した。



初期の戦闘



フィンランド軍と第20山岳軍のはじめての戦闘は1944年9月28日の午前8時頃、プダスヤルヴィから南西20kmのところで生起した。この戦闘において、フィンランドの前衛軍はドイツの後衛部隊に降伏勧告を発した後、発砲した[23]。フィンランドとはそれまでやむなく戦闘を行う場合にはまず警告を発すると合意したため、ドイツ軍は不意を突かれた[23]。この事件の後、両軍は接触し、ドイツ軍がフィンランド軍と戦うつもりはないが降伏もしないと宣告した[23]。次の事件は9月29日にケミとオウルの間にあるオルハヴァ川(フィンランド語版)の橋で起きた。フィンランド軍は橋を無傷で奪取するよう命じられていたため、橋につけられた爆弾を解除しようとしたが、そこでドイツ軍が爆弾を爆発させたため橋が破壊され、フィンランド部隊の指揮官などが死亡した[24]。翌9月30日にはフィンランド軍が森を通ってドイツ軍の両翼を迂回、プダスヤルヴィでドイツ軍を包囲しようとした。フィンランド軍は北方への道路を封鎖することに成功したが、時すでに遅く、プダスヤルヴィのドイツ軍の大半がすでに離れており、残ったのは少数の分遣隊だけだった。分遣隊はフィンランド軍に警告を発した後、弾薬の臨時集積場を爆破させた[25]


戦闘は1944年10月1日に激しさを増した。この日、フィンランド軍は海上からスウェーデンとの辺境近くにあるトルニオへの侵攻を試みた[26]。上陸ははじめ陽動作戦として計画され、主目的はケミの侵攻であった。当時、オサスト・ペンナネン(フィンランド語版)という大隊と同程度の規模を有するフィンランド軍の部隊がすでにケミのすぐ近くにあるアホス島(フィンランド語版)の工業施設を占領していた。しかし、ケミのドイツ駐留軍がはるかに近く、また現地での攻撃によりすでに警戒していたため、フィンランド軍は標的をトルニオの外港ロユッタ(フィンランド語版)に変更した[26]。フィンランド軍はまず第11歩兵連隊を上陸させ、トルニオで蜂起した民兵(英語版)とともにロユッタとトルニオの町のほとんどを占領、トルネ川にかかっていた多くの橋も占領した。しかし、ドイツの補給基地にあるアルコールなどによりフィンランド側が無秩序に陥り、またドイツ軍が頑強に抵抗したこともあってフィンランド軍が立ち往生になった。その後のトルニオの戦いではドイツ軍がケミ川とトルネ川と並行する2つの道路の合流点にあたるトルニオを奪回すべく戦った。ドイツ軍の勢力ははじめクロイトラー師団(Kräutler)だけだったが[27]、後に第211重戦車大隊と2個歩兵大隊、およびフィンラント・マシンガン・スキー大隊(Machine Gun Ski Brigade Finnland)の増援を受けた[28]。フィンランド軍も第50と第53歩兵連隊を増援として送り[29]、ドイツ軍の反撃を撃退した。激しい戦闘が1週間続いた後、ドイツ軍は1944年10月8日に撤退を余儀なくされた[30]


一方、フィンランド軍が陸上でもオウルからケミへ進軍、第15旅団がドイツ軍の頑強な抵抗に遭いながらもゆっくりと進軍できた[31]。しかし、フィンランド軍の兵士でも首脳部でも戦意が低く、ドイツ軍も道路や橋を効率よく破壊したため進軍が妨げられた[32]。1944年10月7日、フィンランド軍がケミを攻撃して第15旅団で前方を、オサスト・ペンナネンで後方を攻撃することでドイツ軍を包囲しようとした[33]。しかし、ドイツ軍が強く抵抗、近くに平民がおり、またアルコールを略奪したためフィンランド軍がドイツ軍全軍を閉じ込めることに失敗した。フィンランド軍は数百人を捕虜にしたが、ドイツ軍が10月8日に撤退を始めると、フィンランド軍はドイツ軍がケミ川にかかっている橋を破壊することを防ぐのに失敗した[34]



さらなる戦闘




廃墟と化したロヴァニエミに入るフィンランド軍、1944年10月。



連合国の対独攻撃が続く中、第20山岳軍と国防軍最高司令部はラップランドとリンゲン・フィヨルドから東のノルウェー北部に陣地を維持し続けることが危険であると考え、撤退を準備した。長い遅滞の後、ヒトラーは1944年10月4日にこの考えを受け入れ、1944年10月6日には撤退作戦が「ノルトリヒト作戦(英語版)」と名付けられた[35]。ビルケ作戦のときは全ての軍需品を運び出しつつラップランド南部から北部にゆるやかに撤退したが、ノルトリヒト作戦では敵軍に妨害されつつ、ノルウェーのリンゲン・フィヨルドへの迅速な、そして整然とした撤退が求められた[35]


ドイツ軍が撤退するとともに、動きがラップランドの主要道路3本付近に限られるようになった。この後の行軍は下記のようなパターンの繰り返しとなった。すなわち、進軍してきたフィンランド部隊は道路網が破壊されていたため大砲などの大型兵器を運べず、ドイツ軍の後衛に遭遇すると歩行でその両翼を迂回しようとした。しかし、フィンランドのライフルマン(英語版)[要リンク修正]が密林や沼地をゆっくりと進んでも、自動車を配備されたドイツ部隊は運転して離れるだけでフィンランド軍をまくことができた[36]


フィンランド軍はドイツ軍の追撃を開始した。第11師団がトルニオから北へ、トルネ川沿岸にある道にそって前進した一方、第3師団はケミからロヴァニエミへ前進した。第6師団と機甲師団(英語版)はプダスヤルヴィで合流した後、北へ前進し始め、まずラヌア(英語版)、続いてロヴァニエミへ前進した。国境猟兵旅団は各地で沿岸警備隊を配置しつつ東部国境に沿って進んだ。道路がドイツ軍に破壊されたため、フィンランド軍は修理工事に従事しなければならず、第15旅団の全員が道路工事を進めたときもあった。ケミからロヴァニエミへ進んだフィンランド軍は徒歩で進んだため自動車化されたドイツ軍部隊に全く追いつかず、実質的な戦闘は起きなかった。一方、ラヌア(英語版)からロヴァニエミへ向かったフィンランド軍はユリマーの戦い(フィンランド語版)キヴィタイパレーンの戦い(フィンランド語版)、ロヴァニエミの戦いなどいくつかの小規模な戦闘を行った。ロヴァニエミから先に進んだフィンランド軍はタンカヴァーラ(英語版)でドイツ軍の強く要塞化された陣地に直面した。一方、トルネ川とムオニオ川(英語版)沿岸にある道路ではドイツ軍の撤退が順調に進んだためフィンランド第11師団がムオニオ(英語版)の村に着くまで戦闘が全く起きなかった。


10月7日、フィンランド軍がドイツの陣地に関する詳細な文書を手に入れて攻撃すると、ドイツ軍はやむなく遅延戦術をとった。両軍の戦力が数的でも同程度であり、フィンランド軍が重火器に欠き、長い行軍に疲労していたため、フィンランドの猟兵旅団はドイツの第218山岳連隊が10月9日に撤退の許可を得るまでにそれを閉じ込めることに失敗した[37]。10月13日、木ヴィタイヴァルでは逆にフィンランドの第33歩兵連隊が不利に陥り、ドイツの第218山岳連隊が撤退しなければ大損害を被ったところであった。ドイツ軍の撤退によりフィンランド軍はドイツ軍のうち遅れた1個大隊を包囲することができたが、ドイツの第218山岳連隊が戻ってきてその大隊を救出した[38]。ロヴァニエミ近郊に真っ先に到着したフィンランド軍の部隊は10月14日にラヌア(英語版)から進軍した猟兵旅団の部隊だった。フィンランド軍がケミ川にかかっていた最後の無傷な橋を占領する試みはドイツ軍に撃退され、1944年10月16日にはドイツ軍が完全に破壊された町から撤退してフィンランド軍に渡された[39]


ここにフィンランド軍の武装解除と補給の困難さが影響力を発揮してしまった。例えば、タンカヴァーラの戦い(フィンランド語版)ではフィンランド猟兵旅団のわずか4個大隊がドイツ第169歩兵師団の12個大隊をあらかじめ準備された防御陣地から追い出そうとして失敗した。フィンランド軍は10月26日にその一帯に到着したが、足場を確保したのは11月1日にドイツ軍が北へ撤退したときだった[40]。10月26日のムオニオではドイツのエッシュ戦闘団(Esch)4個大隊と第6SS山岳師団「ノルト」が数的でも大砲などの装備でも優勢ったため、フィンランド軍第8と第50歩兵連隊は両翼を迂回することに成功しても戦闘自体では失敗した。フィンランド軍の計画は第6SS山岳師団がキッティラからムオニオに進軍することを防いで、それを閉じ込めようとしたが、エッシュ戦闘団の遅滞戦術と道路網の破壊により、フィンランド軍が山岳師団より先にムオニオに到着することはできなかった[41]



ドイツ軍のノルウェーへの撤退





ドイツ人がムオニオで掲示した「戦友として振舞わなかったことへの感謝として」とのサイン。1944年撮影。


ラップランド戦争は実質的には1944年11月初に終結した[42]。ラップランド北東部のタンカヴァーラ(英語版)でフィンランド軍を引き留めた後、ドイツ軍は1944年11月25日にカリガスニエミ(英語版)でフィンランドから迅速に撤退した。ドイツ軍を追撃したフィンランド猟兵旅団は武装解除によりそれまでに人員不足に陥っていた[43]。11月4日までにはラップランド北西部ではフィンランド軍4個大隊しか残っておらず、1945年2月には600人しか残っていなかった。ドイツ軍は撤退を継続したが、要塞化陣地を維持し続け、まず1944年11月初にムオニオから約50km北でトルネ川沿岸にあるパロヨエンスー(フィンランド語版)村に残り、続いて11月26日にラタセノ川(英語版)沿岸にある、ドイツ語でSturmbock-Stellungと呼ばれた陣地に移動した。ドイツの第7山岳師団(英語版)がこれらの陣地を維持した。ドイツ軍がノルウェー北部からも撤退、リンゲン・フィヨルド(英語版)の陣地に兵隊が配置された後、第7山岳師団は1945年1月10日に陣地から撤退した。リンゲン・フィヨルドでの陣地の一部がフィンランドの国境を越えていたが、1945年4月25日にドイツ軍がフィンランドから完全に撤退するまで実質を伴う行動を起こすことはなかった[42]



影響


ドイツ軍は戦争のはじめから道路と橋を系統的に爆破、破壊した。しかし、戦闘が起き始めると、ロタール・レンデュリック将軍はラップランドにおけるフィンランドの財産を破壊する命令をいくつか出した。10月6日には軍事設備や軍事的に重要な場所のみを標的にすることを厳命した命令が発された。10月8日、トルニオとケミ川地域での戦闘の結果が明らかになると、ドイツ軍はケミの工場地域を標的とした爆破攻撃をしかけ、大きな損失を強いた[44]。10月9日に破壊命令が病院を除く全ての公的建物に拡大された[45]。10月13日、フィンランド北部のユリトルニオ(英語版)からロヴァニエミの北北西約20kmにある小さな村シネッタ(フィンランド語版)を経由してソダンキュラと繋いだ線の北にある納屋や倉庫を含む全ての住める建物(病院と教会を除く)の破壊が命じられた。ドイツ軍の視点では追撃してくる敵軍に建物の使用を防げるが、フィンランド軍の視点では多くのフィンランド人が常にテントを持ち歩いたため固定の建物を必要としなかった[45]


ドイツ軍の撤退中、ロタール・レンデュリック将軍はロヴァニエミの戦いで焦土作戦を行った。ドイツ軍ははじめ公的建物に集中して攻撃したが、火が燃え広がると多くの建物が破壊された。ドイツ軍は消火に失敗、10月14日に弾薬の積載した列車がロヴァニエミ駅で爆発すると、主に木製の家屋だったロヴァニエミの町に火が燃え広がる結果となった。結局、ドイツ軍は10月16日にはロヴァニエミをフィンランド軍に明け渡した[46]。ドイツ軍がその後も焦土作戦を行った結果、住居の40から47%が破壊され、ロヴァニエミの街、サヴコスキ(英語版)エノンテキオ(英語版)の村は燃え尽きた。ソダンキュラ、ムオニオ(英語版)コラリ(英語版)サッラ(英語版)ペッロ(英語版)の村では建物の3分の2と675本の橋が破壊され、全ての主要道路が爆破され、3,700km分の電話回線が破壊された。


ロヴァニエミ焦土作戦による損害は1945年時点の価値で約3億ドルと見積もられ、10万人の住民が難民となり、戦後の復興の課題となった。終戦後にレンデュリックは戦争犯罪人とされ、ラップランドの焦土作戦に関する容疑は無罪とされたものの懲役20年を宣告された。レンデュリックは6年後に釈放された。


両軍の損害は限定的であった。フィンランド軍は戦死774、行方不明262、負傷約3,000でドイツ軍は戦死1,200、負傷2,000、捕虜1,300だった。ドイツ軍の捕虜はフィンランドとソ連の停戦協定に基づき、ソ連に引き渡された[47]。ドイツが設置した大量の地雷により終戦から数十年間にわたって多くの平民が死傷し、その後除雷(英語版)活動でも100人近くが死亡した。ドイツ人兵士と婚約したかドイツ軍で働いていたフィンランド人女性数百人がドイツ軍とともにフィンランドを離れた[48]



脚注





  1. ^ 1944年10月末までは75,000人だったが、12月には12,000人まで減少した。


  2. ^ 1944年8月末までは214,000人だったが、ドイツ軍がノルウェーへ撤退するとともに人数が減少していった。




出典




  1. ^ abElfvengren, Eero (2005). “Lapin sota ja sen tuhot”. In Leskinen, Jari; Juutilainen, Antti (フィンランド語). Jatkosodan pikkujättiläinen (1st ed.). Werner Söderström Osakeyhtiö. pp. 1124–1149. ISBN 978-951-0-28690-6. 

  2. ^ abAhto 1980, p. 296.


  3. ^ Ahto 1980, pp. 15–20.


  4. ^ Ahto 1980, p. 21.

  5. ^ abAhto 1980, pp. 37–41.


  6. ^ Ahto 1980, pp. 45–46.


  7. ^ Ahto 1980, p. 43.


  8. ^ Ahto 1980, pp. 48, 59–61.


  9. ^ Ahto 1980, pp. 62–71.


  10. ^ Kijanen 1968, p. 220.


  11. ^ Kijanen 1968, p. 221.


  12. ^ Kijanen 1968, p. 225.


  13. ^ Kijanen 1968, pp. 229–230.


  14. ^ Kijanen 1968, pp. 226–227.


  15. ^ Lunde 2011, p. 317.


  16. ^ Lunde 2011, p. 327.


  17. ^ Lunde 2011, p. 319.


  18. ^ Finnish National Broadcasting Company YLE: Evacuation of Lapland Retrieved 2007-02-22. RealAudio Clip. (フィンランド語)


  19. ^ Nenye, Vesa; Munter, Peter; Wirtanen, Toni; Birks, Chris (2016). Finland at War: the Continuation and Lapland Wars 1941–45. Osprey Publishing. ISBN 1472815262. https://books.google.com/books?id=zb6gCwAAQBAJ. 


  20. ^ Lunde 2011, pp. 337–338.


  21. ^ Lunde 2011, pp. 338–339.


  22. ^ Lunde 2011, pp. 339–341.

  23. ^ abcAhto 1980, pp. 142–144.


  24. ^ Ahto 1980, pp. 146–147.


  25. ^ Ahto 1980, pp. 148–149.

  26. ^ abAhto 1980, p. 150.


  27. ^ Ahto 1980, p. 153.


  28. ^ Ahto 1980, pp. 166–167, 177, 195.


  29. ^ Ahto 1980, pp. 177, 195.


  30. ^ Ahto 1980, pp. 202–207.


  31. ^ Ahto 1980, pp. 207–210.


  32. ^ Ahto 1980, pp. 210–211.


  33. ^ Ahto 1980, pp. 212–213.


  34. ^ Ahto 1980, pp. 213–214.

  35. ^ abLunde 2011, pp. 342–343, 349.


  36. ^ Ahto 1980, pp. 230–232.


  37. ^ Ahto 1980, pp. 232–245.


  38. ^ Ahto 1980, pp. 245–250.


  39. ^ Ahto 1980, pp. 251–252.


  40. ^ Ahto 1980, pp. 268–278.


  41. ^ Ahto 1980, pp. 280–294.

  42. ^ abAhto 1980, pp. 294–295.


  43. ^ Ahto 1980, pp. 278–280.


  44. ^ Ahto 1980, p. 215.

  45. ^ abAhto 1980, pp. 216–218.


  46. ^ Ahto 1980, pp. 219–222.


  47. ^ “Lapland”. 2007年2月22日閲覧。


  48. ^ Finnish National Broadcasting Company YLE: Naiset saksalaisten matkassa WWW-page and linked RealAudio clip. Retrieved 2007-02-22 (フィンランド語); Finnish National Broadcasting Company YLE: Paluu miinavaaraan. WWW-page and linked RealAudio clip. Retrieved 2007-02-22 (フィンランド語); Finnish National Broadcasting Company YLE: Jälleenrakennus WWW-page and linked RealAudio clip. Retrieved 2007-02-22.(フィンランド語)




参考文献




  • Ahto, Sampo (1980) (フィンランド語). Aseveljet vastakkain – Lapin sota 1944–1945. Helsinki: Kirjayhtymä. ISBN 978-951-26-1726-5. 


  • Kijanen, Kalervo (1968). Suomen Laivasto 1918–1968 II. Helsinki: Meriupseeriyhdistys/Otava. 


  • Leskinen, Jari; Juutilainen, Antti, eds (2005) (フィンランド語). Jatkosodan pikkujättiläinen (1st ed.). Werner Söderström Osakeyhtiö. ISBN 978-951-0-28690-6. 


  • Lunde, Henrik O. (2011). Finland's War of Choice: The Troubled German-Finnish Alliance in World War II. Newbury: Casemate Publishers. ISBN 978-1-61200-037-4. 


  • 梅本弘『流血の夏』、大日本絵画、1999年、 ISBN 4-499-22702-X

  • カリ・クーセラ『フィンランドのドイツ戦車隊』、斎木伸生訳、大日本絵画、2002年、 ISBN 4-499-22771-2



関連項目



  • 冬戦争

  • 継続戦争

  • ゾンダーコマンド・ノルト



外部リンク







  • Pictures from Wars during Finland´s independence:The War of Lapland (maps, photos from front, songs and radio speeches)








Popular posts from this blog

How to reconfigure Docker Trusted Registry 2.x.x to use CEPH FS mount instead of NFS and other traditional...

is 'sed' thread safe

How to make a Squid Proxy server?