リダニヤの戦い




リダニヤの戦い(英:Battle of RidaniyaまたはRidanieh; トルコ語:Ridaniye Muharebasi; アラビア語:معركة الريدانية‎‎)は、1517年1月22日、エジプトにおいてセリム1世率いるオスマン帝国軍がアシュラフ・トゥーマーンバーイ率いるマムルーク朝軍に勝利した戦いである。カイロに侵入したオスマン軍はトゥーマーンバーイの首をカイロの門に掲げたとも、死体を門に吊るし、3日後に埋葬したとも言われている。


オスマン帝国の大宰相ハディム・シナン・パシャが戦死し、セリム1世は「我々は戦いに勝ったが、シナンを失った」と話したという。



戦闘の推移


トゥーマーンバーイはサラヒア(Salahia)まで進軍することを決意し、そこで砂漠の行軍により憔悴したオスマン軍と遭遇したが、首長らの反対に屈し、カイロ郊外のリダニヤに陣を敷くことにした。オスマン帝国は戦闘をすることなくリダニヤに達し、1月22日に戦闘が始まった。トゥーマーンバーイは自らオスマン軍の歩兵に切り込み、セリム1世の幕営にまで達したが、結局エジプト軍はナイル川の上流へ敗走した。オスマン軍はカイロに侵入し、暴虐の限りが尽くされた。翌日到着した宰相は兵士らの狼藉をやめさせるため、カリフであるムタワッキル3世に慈悲を求める布告を出させたが、狼藉がやむことはなかった。数日後、セリム1世とムタワッキル3世がカイロに入城すると、ようやく略奪はやんだ。


翌日の夜、ベドウィンに加勢されたトゥーマーンバーイが再び現れ、一時オスマン軍をカイロから追い散らした。しかし圧倒的な勢力で再び攻め寄せたオスマン軍を前に、スルタンはナイルを渡ってギザに逃亡し、後に上エジプトに亡命した。


勝利に満足したセリム1世は恩赦を意味する紅白の旗を幕営に掲げさせたが、マムルークは恩赦の対象から外された。マムルークを匿ったものは死罪にすると宣言され、これにより発見された800人が斬首された。



参考文献


Muir, William (1896). The Mameluke; Or, Slave Dynasty of Egypt, 1260–1517, A. D. Smith, Elder.







Popular posts from this blog

How to reconfigure Docker Trusted Registry 2.x.x to use CEPH FS mount instead of NFS and other traditional...

is 'sed' thread safe

How to make a Squid Proxy server?