扶桑 (戦艦)
















































































Fuso Trial Heading Left.jpg
第一次近代化改装後(1933年)
艦歴
発注
呉海軍工廠
起工
1912年3月11日
進水
1914年3月28日
就役
1915年11月8日
沈没
1944年10月25日[1]
除籍
1945年8月31日
性能諸元(新造時[2]
排水量 基準:29,330t(常備:30,650t)
全長 192m(630フィート)
全幅 28.68m(94フィート)
吃水 平均:8.69m(28.4フィート)
機関 ブラウンカーチス式タービン2基4軸、宮原式x24缶、40,000馬力
燃料 石炭5,022t、重油1,026t
最大速 22.5kt
航続距離 14ktで8,000浬
兵員 1,193名
兵装 四一式35.6cm(45口径)連装砲6基12門
四一式15cm(50口径)単装砲16門

三年式 7.6cm(40口径)単装高角砲4門
朱式6.5mm機砲3門
四一式短8cm砲外膅12門
53cm水中魚雷発射管6門
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋152mm


扶桑(ふそう/ふさう)は、日本海軍の戦艦[3][4][5]
扶桑型戦艦の1番艦[6]。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の由来は日本の古い異名の一つであり[7]、同名を頂く艦としては二代目となる[8](初代扶桑は1879年竣工の装甲フリゲート[9])。
艦内神社は男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮[10]




目次






  • 1 概要


    • 1.1 建造経緯




  • 2 艦歴


    • 2.1 竣工後


    • 2.2 第一次近代化改装


    • 2.3 第二次近代化改装


    • 2.4 太平洋戦争


    • 2.5 スリガオ海峡夜戦での最期




  • 3 艦歴(年表)


  • 4 主要目一覧


    • 4.1 公試成績




  • 5 歴代艦長


  • 6 その他


  • 7 同型艦


  • 8 画像集


  • 9 脚注


  • 10 参考文献


  • 11 関連項目


  • 12 外部リンク





概要



建造経緯


日露戦争後の1906年(明治39年)、イギリスが弩級戦艦ドレッドノートを就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。



艦歴


扶桑は第三号戦艦として1912年(明治45年)3月11日に呉海軍工廠で起工された[11]。1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名[3]。伏見宮博恭王立会いのもと進水[12][11]。同日附で戦艦に類別される[13]。1915年(大正4年)11月8日に竣工した[14][11]。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった[15]。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、扶桑の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている[16]



竣工後


1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。9月3日、扶桑は東京出身の海軍兵学校生徒をのせて東京へ向かった[17]



第一次近代化改装


扶桑はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた[18]。1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた[19]。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった[20]。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された[21]


高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造当時は扶桑も砲口が艦尾方向を向いていた[22]。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり[要出典]、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある[23]


なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった[24]


1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長として配属される[25]。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった[26]。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している[27]


1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した[28]。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡摩耶に転任した[29]。6月29日、演習中に駆逐艦2隻(深雪、電)が衝突、深雪は扶桑の目の前で沈没した[30]
9月11日、扶桑以下第一艦隊は舞鶴を出発[31]。朝鮮半島を経て旅順港等を航海する。26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向に変更となった[32]。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った[33]



第二次近代化改装



第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)10月下旬から実施され、1935年(昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた[34]。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御の強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものに換装され射撃指揮装置も一新された。対空火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のレイテ沖海戦には電探も搭載された。機関も改修され出力が5000馬力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった[35]
捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt〜21.5kt程度に止まり[36]、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある[23]。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている[23]。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している[23]



太平洋戦争


太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った[37]。扶桑乗組員への功績評価は「功労甲」であった。
1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃[38]、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった[39]。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の4隻(扶桑、山城、伊勢、日向)は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された[40]
このミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失する[41]。空母不足に陥った日本軍は、金剛型戦艦、扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、青葉型重巡洋艦、利根型重巡洋艦を航空母艦へ改造することを検討する[42]。工事が長引く全通飛行甲板型の空母への改造案は破棄され、航空戦艦への改造計画がまとまる[42]。検討の結果、日向の五番砲塔爆発事故の関係から伊勢型戦艦のみを航空戦艦に改造した[43]


1943年(昭和18年)6月1日、扶桑艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代[44](古村大佐は、6月9日附で大和型戦艦2番艦武蔵艦長[45])。
6月8日、瀬戸内海柱島泊地に停泊していた扶桑および長門、大淀、龍田等は長門型戦艦2番艦陸奥の爆沈に遭遇した[46][47][48]。陸奥艦長三好輝彦大佐は、扶桑艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令[44]。6月7日扶桑に到着。三好大佐とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと陸奥に戻り、爆発にまきこまれて戦死した[46]。扶桑や長門以下各艦は共同で陸奥生存者の救助をおこなった[46][49]
7月には、長門と共に航空隊の演習目標艦となった[50]。なお、同型艦の山城が日本本土にとどまっていたのに対し[51]、扶桑はトラック泊地に進出することになった。
8月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》[52]、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ到着[53][54]。以降はトラック泊地で待機した[55][56]
10月下旬、山城や航空戦艦に改造されたばかりの伊勢が扶桑用36cm主砲弾や大和型戦艦用の46cm砲弾を運搬している[57][58]。姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても扶桑はトラック泊地にとどまり[59]、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している。

1944年5月中旬、長門とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入[60]。5月14日にタウイタウイへ進出[61]



1944年(昭和19年)6月初旬の渾作戦に、渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官指揮のもと、扶桑は第十六戦隊(青葉、鬼怒)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第十駆逐隊(風雲、朝雲)、第十九駆逐隊(浦波、敷波)、第二十七駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)と共に出撃[62]、ビアク島に上陸したアメリカ軍を撃退すべく同方面に進出した[63][64]。アメリカ艦隊を誘い出すための陽動部隊(囮)であった[65]。重巡洋艦羽黒から扶桑を目撃した福田幸弘主計科士官は、『大正六年竣工のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった』と回想している[66]


6月3日、アメリカ軍哨戒機に発見された事、アメリカ軍機動部隊出現の報告(誤認)など受けて退避、間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)および各隊はミンダナオ島のダバオへ戻った[64]。扶桑の士官によれば、扶桑と重巡洋艦青葉がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという[67]。日本軍機動部隊が完敗したマリアナ沖海戦には参加せず、そのままダバオで待機を続けた[68][69]
7月1日、第四駆逐隊(山雲、野分、満潮)と共にブルネイを出港[70]。野分士官は「この戦艦の乗員にすれば鶴首久しく、まことに心強い味方の来訪であったろう」と回想している[71]。タラカンに寄港して燃料を満載しつつ(2日〜8日)、日本本土へ向かった[72][73]。14日、敵潜水艦と思しき存在に対し照射射撃を行う[74]。第四駆逐隊とは宿毛湾で分離した[75][76]。扶桑は呉工廠にて修理と機銃の増設工事を行った。


扶桑がダバオで待機中の6月27日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将は次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した[77]。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将:旗艦那智)の直率にする意向を示した[77]。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れる[77]。9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:扶桑型戦艦《山城、扶桑》)が編制される[78]。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のリンガ進出(10月4日同地着)をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に編入、第二戦隊および第一遊撃部隊第三部隊旗艦の予定となる[77]。ところが9月16日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門第二戦隊編入計画に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発、長門が西村艦隊旗艦としてスリガオ海峡に突入する事はなかった[79]


9月22日、第二戦隊(山城、扶桑)は第十七駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)に護衛されて内地を出撃、ブルネイを経由してリンガ泊地へ進出した[80]



スリガオ海峡夜戦での最期





開戦前の改装工事および出師準備工事によって、航空機艤装は船体後部に移設され、対空機銃は25mm連装機銃を主力換装されている。大戦中の装備の増強は不明な点も多いが、25mm三連装、連装、単装機銃に13mm機銃多数が追加され、二一号、二二号、一三号電探(レーダー)も加えられたとされる。[81]



1944年(昭和19年)10月25日未明、扶桑は第一遊撃部隊(第二艦隊)第三部隊(通称西村艦隊)指揮官西村祥治第二戦隊司令官の指揮のもと、全7隻(戦艦2隻《山城、扶桑》、重巡洋艦1隻《最上》、駆逐艦4隻《満潮、朝雲、山雲、時雨》)という戦力でレイテ湾へ突入中、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、駆逐艦時雨を残して全滅した[82]。扶桑も雷撃され沈没した。経過は以下の通り。


10月22日朝、栗田艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊・第二部隊)はブルネイ泊地を出撃、西村艦隊(第三部隊)は午後3時に同泊地から出撃した[83]。対空機銃を増設した関係で、扶桑には定員より多い約1300名が乗艦していたとされる[84]。劣速で[85]航続力の少ない第三部隊は当初より第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高い代わりにレイテ湾への最短航路を経由する事が決定されていた為[86]、同24日、第一遊撃隊とは別コースのスリガオ海峡を通り抜けてレイテ湾を目指した。栗田艦隊(とくに戦艦武蔵)がアメリカ軍機動部隊の攻撃を一身に受けていたために、西村艦隊はミンダナオ海で急降下爆撃機約20(空母エンタープライズ、フランクリン所属機)による空襲を受けたのみであった[83]




米艦載機を砲撃中の扶桑と最上(写真上段)[87]


扶桑ではカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けた[83]。最上は『扶桑後部ニ爆弾一命中観測機一機炎上 後部ニ破口ヲ生ジタル外大ナル被害ナシ』と報告し[88]、西村司令官は栗田長官にあてた電報で「戦闘力発揮支障ナシ」と報告した[89]


『雑誌丸エキストラ 5月号別冊』によれば、至近弾で後部甲板に装着していた爆雷が爆発し、搭載していた九四式水偵2機に引火。水偵に搭載していた小型爆弾が爆発した事で後部甲板は火の海となり、舵取機室以外の司令官室とその周辺の用具庫などを吹き飛ばされただけでなく、前艦橋右舷の第一カッター・ダービット近くの甲板にも命中弾を受ける事となった。また、空襲の際に投下された250kg爆弾は副砲の一番砲廊を貫き、中毒者収容室と被服庫の辺りを貫通し、前部水圧機室で爆発した。この爆発によって水圧機室は大破し付近の防水隔壁が押し上げられた事で、扶桑中甲板と上甲板の床を突き上げられるという損害を受けただけでなく、副砲一番砲員、弾火薬庫員がほぼ全滅し、医務室士官、前部応急員十数名が即死し被服事務室、厨房事務室が破壊された。更に、前部水圧機室が破壊された事で扶桑の第一、第二砲塔の操作に支障が起き、被弾の衝撃で浸水が発生し右舷に2度傾斜した。応急処置がほどこされたものの、傾斜は復元されず、そのままの状態で進む事となった[90]


同日夜、アメリカ海軍の魚雷艇部隊がスリガオ海峡の入り口に待ち構えていたため、西村艦隊は重巡洋艦最上と駆逐艦3隻(朝雲、満潮、山雲)を先行させ[91]、直率3隻(山城、扶桑、時雨)の探照灯で魚雷艇を攻撃しつつ航行した[92][93][94]


明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いるアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群は、丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。西村艦隊は満潮→朝雲→山城《旗艦》→扶桑→最上、旗艦(山城)の右1.5kmに山雲、左に時雨という単縦陣で海峡に侵入した[95][94]。さらに完全な単縦陣に移行しつつ砲撃を開始、魚雷艇部隊や駆逐艦隊に向けて砲弾を放った。午前3時、アメリカ軍の駆逐艦隊は魚雷多数(27本)を発射、うち1本が扶桑右舷に命中した[96]。最上戦闘詳報では午前3時以降の攻撃で扶桑右舷中央部に魚雷が命中して落伍、最上が山城の後ろに続行したと記録している[97]。一連の雷撃により、駆逐艦3隻(満潮、山雲、朝雲)は沈没するか戦闘不能となった[82]。なお、西村中将は扶桑が落伍したことを知らなかったとみられる。
一方、時雨は落伍した艦を山城、健在艦を扶桑と誤認していた[98][99]。その後午前3時10分(アメリカ軍記録0338)、扶桑第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆した事で大爆発が発生し、扶桑の船体は真っ二つに割れた[100]


一方、時雨は扶桑(実際は山城)に対し『我貴隊に続行す』を発信[101]、西村司令官(山城座乗)は扶桑に対し『出し得る最大速力知らせ』を発信した[102]。古村啓蔵少将(元扶桑艦長、第二水雷戦隊司令官)は先に山城が沈没し、阪匡身少将(扶桑艦長)が西村艦隊の指揮を継承したのち3隻(扶桑、最上、時雨)を率いて突進した…と記述している[103]。同様の記述(山城が魚雷命中により午前3時すぎに爆沈、扶桑艦長が残存艦《扶桑・最上・時雨》を指揮して突入)は一部の書籍でも散見される[82]。午前4時以降、アメリカ戦艦部隊・巡洋艦部隊・駆逐艦部隊の砲雷撃集中により西村司令官は戦死(山城沈没)、最上、時雨共に損傷してスリガオ海峡より反転・撤退した[104]
同時刻、レイテ湾の状況をつかめないまま航行していた第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官:重巡洋艦2隻《那智、足柄》、第一水雷戦隊《阿武隈〔一水戦司令官木村昌福少将〕、霞、不知火、潮、曙》)は、前方に閃光や砲声を認めつつ戦場に到着した[105][106]。彼等は海峡中央で火達磨となった艦影二つ(霞戦闘詳報によれば三つ[107])を確認した[108]。一つは炎上中の最上であった[109]。志摩艦隊の将兵は残る二つの艦船を2隻(扶桑、山城)と判断したが、実際には分断された扶桑であった[108]。第二遊撃部隊は扶桑残骸の西側を通過しようとしたが、那智は低速退避中の最上と衝突した[110]。その後、志摩艦隊は避退に成功した。


アメリカ軍によれば、扶桑艦首前半部分は午前4時20-30分頃に沈没し、転覆して浮いていた艦尾後半部分は午前5時20分頃に重巡洋艦ルイスビル(USS Louisville, CA-28)が砲撃して沈めた[111]。退避中の「朝雲」も追撃してきたアメリカ艦隊の砲撃で沈没[112][113]。最上も25日午前中に空襲を受けて、駆逐艦曙により雷撃処分された[114]。最後まで山城と扶桑を誤認していた駆逐艦時雨は[115]、損傷しつつも離脱に成功した[116]


多くの資料で扶桑艦長の阪匡身少将を含む幹部以下全員が戦死したとあるが[117][78]、記録では扶桑所属乗組員7名がマニラ地区の地上兵力に編入された[118]。異説としては扶桑にも山城と同様10名の生存者が戦後帰還しているとする江崎寿人大尉(山城主計長)の証言がある[119]。また、戦後レイテ沖海戦時扶桑二分隊主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹(当時)が沈没時の様子を描いた手記を残している[120]


1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[121]



艦歴(年表)




  • 1912年3月11日 呉海軍工廠で起工


  • 1914年3月28日 命名[3]、進水。


  • 1915年11月8日 竣工


  • 1923年9月6日〜22日 関東大震災救援行動


  • 1925年5月1日[122]昭和天皇の弟宮高松宮宣仁親王(海軍少尉)が扶桑着任(長門乗組みからの転任)[123]

  • 1928年




4月2日〜5日 厦門入港[124]


4月9日〜14日 と戦艦長門、陸奥、軽巡洋艦天龍、給油艦鶴見、駆逐艦16隻、香港まで親善の訪問を行う。




  • 1930年4月19日〜1933年5月12日 呉海軍工廠で第一次近代化改装(機関の重油専焼缶への換装・バルジの付加など)


  • 1933年11月15日高松宮宣仁親王(海軍大尉)、扶桑分隊長。

  • 1934年



実働戦力低下のため一時的に戦列復帰(榛名と入れ替わりに改装に復帰)

9月〜10月中旬 第一艦隊第一戦隊として朝鮮半島・旅順・青島市等を訪問。

10月下旬 呉海軍工廠で第二次近代化改装(艦尾延長・第三主砲塔係留位置変更・カタパルト設置)


11月1日 宣仁親王、海軍大学校甲種学生となり退艦(発令1日、退艦2日)[125]



  •  1935年2月19日 


  • 1939年秋〜1941年春 太平洋戦争出師準備改装(艦尾延長・カタパルト移設・測距儀換装・応急注排水装置装備・舷外電路装備)

  • 1942年




4月18日〜22日 東京空襲の米空母機動部隊追撃 


5月29日〜6月17日 MI作戦支援、キスカ方面に出動、横須賀に帰港。


11月15日〜1943年1月15日 候補生実習艦として実戦から外される。


  • 1943年



6月8日 「陸奥」爆沈に遭遇、救助活動に従事。

秋以降、トラック泊地に進出。


  • 1944年



2月25日 第一艦隊解散により連合艦隊付属に編入(1月ごろリンガ泊地へ進出)。

5月中旬 「長門」とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入。タウイタウイへ進出。


5月27日 アメリカ軍のビアク上陸を受け、渾作戦間接援護隊旗艦として出撃、6月5日ダバオへ入港。


7月1日 第四駆逐隊(満潮、野分、山雲)に護衛されダバオ出発。タラカンを経由して内地帰投。


7月15日 呉工廠に入渠し、機銃・電探の増備工事開始(8月14日出渠)。


9月10日 第二艦隊第二戦隊に編入される(西村艦隊二番艦)。


9月22日 輸送任務を兼ね、第十七駆逐隊に護衛されて内地を出撃[126]


10月4日 栗田艦隊にリンガ泊地で合流、8日ブルネイへ進出、22日15:30出撃。(スル海・スリガオ海峡経由レイテ突入航路)


10月25日 スリガオ海峡夜戦にてアメリカ艦隊の雷撃で魚雷が命中して横転、大爆発を起こして沈没した(-180m / 600 fsw)。



  • 1945年8月31日 除籍[121]


主要目一覧



























































































































要目
新造時
(1915年)
艦尾延長時
(1935年)
レイテ沖海戦時
(1944年)
排水量 基準:29,330t
常備:30,998t
基準:34,700t
公試:39,154t

全長 205.13m 212.75m
全幅 28.65m 33.08m
吃水 8.69m 9.69m
主缶 宮原式混焼缶両面8基
同片面16基
ロ号艦本式4基
同ハ号缶2基

主機 ブラウンカーチス式タービン 艦本式タービン4基4軸
軸馬力 40,000shp 75,000shp※※
速力 22.5ノット(計画) 24.5ノット(計画)※※
航続距離 8,000海里/14ノット 11,800海里/16ノット※※
燃料 石炭:4,000t
重油:1,000t
重油:5,100t
乗員 1,193名 1,396名 1,637名
主砲 四一式35.6cm連装砲6基
副砲 四一式15.2cm単装砲16門 同14門
高角砲 なし 12.7cm連装砲4基
機銃 13mm4連装4基
25mm連装8基
25mm3連装8基
25mm連装16基
同単装39挺
13mm単装10挺
魚雷 53cm水中発射管6門 なし
その他兵装 21号電探1基
22号2基
13号2基
装甲 水線305mm
甲板64mm
主砲天蓋152mm
水線305mm
甲板100mm
主砲天蓋152mm
縦壁75mm

搭載機 なし 水偵3機
カタパルト1基


※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。

※※ 艦尾延長前の数値。



公試成績





















項目
排水量
出力
速力
実施日
実施場所
備考
大改装後 24.68kt
1933年(昭和8年)5月10日
宿毛沖 [127]


歴代艦長


※『艦長たちの軍艦史』18-21頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。



  • 佐藤皐蔵 大佐:1915年2月26日[128] - 1915年12月13日

兼呉海軍工廠艤装員(1915年2月26日[128] - 1915年11月8日)



  • 向井弥一 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日


  • 山岡豊一 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日

  • 竹内重利 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日

  • (兼)生野太郎八 大佐:1918年12月1日 - 1919年4月1日


  • 島内桓太 大佐:1919年4月1日 - 1919年11月20日


  • 大谷幸四郎 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月20日

  • 大石正吉 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日


  • 漢那憲和 大佐:1921年12月1日 - 1922年12月1日

  • 加々良乙比古 大佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日

  • 白石信成 大佐:1923年12月1日 - 1924年7月18日


  • 米内光政 大佐:1924年7月18日 - 1924年11月10日


  • 高橋三吉 大佐:1924年11月10日 - 1925年12月1日


  • 濱野英次郎 大佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日

  • 杉浦正雄 大佐:1926年11月1日 - 1927年8月20日


  • 市村久雄 大佐:1927年8月20日 - 1928年12月10日


  • 池田武義 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日

  • 蔵田直 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日


  • 杉坂悌二郎 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日


  • 町田進一郎 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日

  • 荒木貞亮 大佐:1932年12月1日 - 1934年11月15日


  • 岩村清一 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日


  • 草鹿任一 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日


  • 吉田庸光 大佐:1936年12月1日 - 1937年1月26日

  • 高崎武雄 大佐:1937年1月26日 - 1937年12月1日


  • 阿部弘毅 大佐:1937年12月1日 - 1938年4月1日

  • (兼)青柳宗重 大佐:1938年4月1日 - 1938年4月25日


  • 藤田類太郎 大佐:1938年4月25日 - 1938年11月5日


  • 岸福治 大佐:1938年11月5日 - 1939年11月1日

  • (兼)山口儀三朗 大佐:1939年11月1日 - 1939年11月15日

  • 佐藤勉 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日


  • 河野千万城 大佐:1940年10月15日 - 1941年9月15日


  • 木下三雄 大佐:1941年9月15日 - 1942年12月5日


  • 古村啓蔵 大佐:1942年12月5日 - 1943年6月1日


  • 鶴岡信道 大佐:1943年6月1日[44] - 1944年2月23日


  • 阪匡身 少将:1944年2月23日[129] - 1944年10月25日戦死



その他


  • 戦後の競走馬である第4回安田賞の優勝馬フソウ号の馬名およびその生産牧場である扶桑牧場の名は扶桑に由来する。馬主の親族が扶桑の艦長を務めていた事に因んだ。


同型艦


  • 山城


画像集








脚注





  1. ^ 沈没位置:レイテ湾 10-24N 125-21E(日本記録) 10-25N 125-20E(米軍記録)


  2. ^ 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」p.3、「軍艦長門、扶桑要目」p.4

  3. ^ abc#達大正3年4月p.3『達第五十七號 呉海軍工廠ニ於テ建造ノ第三號戰艦ヲ扶桑ト命名セラル 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』


  4. ^ #日本軍艦集2600年版p.17『-戰艦- 扶桑(ふさう) 基準排水量29,330噸、長さ192.03米、幅28.68米、平均吃水8.69米、速力22.5節、備砲36糎砲12門、15糎砲16門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管2門、起工明治45年3月11日、進水大正3年3月28日、竣工大正4年11月8日、建造所呉海軍工廠-姉妹艦に山城がある。』


  5. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.14『戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 同型艦"山城 やましろ" 昭和8年に約3ヶ年を要して大改装を完成したこの扶桑ほど、づばぬけた近代化を示して世人をあつと云はせたものは世界中どこをたづねてもあるまい。改装直にその年の特別大演習に参加し、引續き昭和9年度昭和10年度と聯合艦隊の主軸をなしてゐるのに見て、この近代化は異彩を放つてゐる。竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。戰艦山城はこの扶桑と同型の姉妹艦本年これも改装を完成して共に聯合艦隊の主力として活躍中である』


  6. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|軍艦|戰艦|扶桑型|扶桑、山城』


  7. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.25『艦名考:東海中に在りと云ふ大なる神木、転じて東方日出づる處にある神仙国、即ち我が大日本国の異称とす。』


  8. ^ 「官房第714号 10.2.20 軍航扶桑由来の件」p.3


  9. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110


  10. ^ #高松宮日記2巻170-171頁『十一月二十四日雨(中略)今日は午前、扶桑神社(昨年大神宮を合祀す もともとは男山八幡だつた)のおまつりあり。後武技試合ありしも喪中だから参列せず。午後、配置教育、総合兵器額、第四回弾火薬庫装置』

  11. ^ abc#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.2『扶桑|戰艦|長(米)192.02|幅(米)28.68|喫水(米)8.69|排水量(噸)(基準)29,330|速力(節)22.5|短艇數13|建造所 呉工廠|起工年月日 明治45-3-11|進水年月日 大正3-3-28|竣工年月日 大正4-11-8|主要兵装 大砲36c/m…12 15c/m…16 12.7c/m高角8|發射管2|探照燈8|機械 種類「タルビン」 數4|罐 種類艦本式 數6|推進器數4|馬力40,000』


  12. ^ 「軍艦扶桑進水式に関する件(3)」p.59


  13. ^ #達大正3年4月p.3『達第五十八號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「摂津」ノ次ニ「扶桑」ヲ加フ 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』


  14. ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.4


  15. ^ #歴群30扶桑型p.122


  16. ^ #歴群30扶桑型p.123


  17. ^ #高松宮日記1巻176頁『九月三日 月曜 東京出身ノ生徒ハ「扶桑」デ急行シタ。途中寄港スルノデ東京着ハ余リ早クナイ(以下略)』


  18. ^ 「丸 2013年8月号」p76


  19. ^ #歴群30扶桑型p.125


  20. ^ #歴群30扶桑型p.126


  21. ^ 「写真週報117号」p.11、#歴群30扶桑型p.110


  22. ^ 「軍艦扶桑製造の件(2)」p.59。扶桑の設計図より。

  23. ^ abcd#佐藤 艦長(文庫)12-16頁『水平防御に弱点』


  24. ^ 「丸 2013年8月号」p89


  25. ^ #高松宮日記2巻165頁


  26. ^ #高松宮日記2巻199頁『一月十日 八時半、艦へ。今日は艦へとまるつもりだつたら、艦長がきて浴室便所の繼が悪いから艦へとまるなとのことだつたから、浴室はどうせ入らぬからいらぬ、便所も使はないからと云つたら、大便をするだろうと(以下略)』


  27. ^ #高松宮日記2巻205頁『一月二十三日(略)今朝、四塔の換装室から弾庫へおりるあのせまい通路で首つりをやつた三水あり。原因不明。志願兵で中学も出た、よい明い兵だつたさうだが、四塔員、オハラヒをしたりする。いやはや不景気な艦である。病死したものも最近あつたが。』


  28. ^ #高松宮日記2巻212頁『二月四日』


  29. ^ #高松宮日記2巻236頁『四月一日 水雷長が摩耶へ転任(戦艦の雷装廃止によつて)』


  30. ^ #高松宮日記2巻274頁『六月二十九日』


  31. ^ #高松宮日記2巻299頁『九月十一日』


  32. ^ #高松宮日記2巻306頁『九月二十六日 十時半、第一戦隊旗艦変更、「日向」へ(以下略)』


  33. ^ #高松宮日記2巻312頁『十月五日 六時、まだ暗いのに入港。午前、鎮長官〔米内光政中将〕、松浦寅三郎氏来艦。午後、知事来る。』


  34. ^ #歴群30扶桑型p.127


  35. ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.13『戰艦"扶桑 ふさう" 全要目{排水量29,330噸 速力22.5節 備砲36糎砲12門 15糎砲16門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管2門 起工明治45年3月 竣工大正4年11月 建造所 呉工廠} 約3ヶ年を要して大改装を完成した扶桑ほど、思ひ切つた近代化を示して世界をあつと云はせたものはあるまい。それほどこの近代化は異彩を放ち、竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。煙突は一本に省略されカタパルトが嚴然と据ゑられ(山城では射出機は艦尾にある)探照燈架が増へ、後檣が大きくなつて、人をして同艦であるかを疑はしめたほどの蝉脱振であつた。長さ192.02米、幅28.68米(山城28.65米)平均吃水8.69米。』


  36. ^ 「レイテ沖の日米大作戦」p60、「第3/2. 海上作戦(レイテ海戦)(2)」p1〜6、「昭和19年10月16日〜昭和19年10月28日 戦闘詳報. 第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)」p12、32、「昭和19年10月18日〜昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報」p7「昭和19年10月23日〜昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報」p34〜36


  37. ^ #歴群30扶桑型p.170


  38. ^ #歴群30扶桑型p.173


  39. ^ #歴群30扶桑型p.174


  40. ^ #戦艦十二隻(2014)314-315頁(古村啓蔵扶桑艦長談)


  41. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)16-19頁『航空母艦緊急増勢』

  42. ^ ab#戦史叢書海軍戦備(2)23頁『戦艦伊勢、日向の改装』


  43. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)102-103頁『戦艦伊勢、日向の航空戦艦への改装』

  44. ^ abc昭和18年6月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1034号。アジア歴史資料センターref.C13072091400 p.23で閲覧可能。


  45. ^ 昭和18年6月9日付 海軍辞令公報(部内限)第1040号。アジア歴史資料センターref.C13072091500 p.44で閲覧可能。

  46. ^ abc#佐藤 艦長(文庫)9-12頁『「陸奥」爆沈の目撃者』


  47. ^ #戦史叢書海軍戦備(2)109頁『戦艦陸奥の爆沈』


  48. ^ #戦艦十二隻(2014)286-287頁


  49. ^ #戦艦十二隻(2014)280-284頁


  50. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(2)」p.30


  51. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(4)」pp.18-20


  52. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』


  53. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』


  54. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』


  55. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.10-12


  56. ^ #佐藤 艦長(文庫)16-17頁『運命のスリガオ突入』


  57. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.3-4『9月26日連合艦隊機密第242131番電ニ依リ第11水雷戦隊(龍田)、第32駆逐隊(早波涼波藤波)、山城、伊勢ヲ以テ丁三號輸送部隊ヲ編成セラル(略)本職10月11日山城ニ将旗ヲ移揚シ15日1000豊後水道西掃海水道出撃20日1300「トラック」ニ進出本職将旗ヲ龍田ニ復帰ス』


  58. ^ #S1804十一水戦日誌(5)pp.19-20


  59. ^ 「第11水雷戦隊戦時日誌(5)」p.75


  60. ^ 「戦史叢書 マリアナ沖海戦」 p370〜371


  61. ^ 「戦史叢書 マリアナ沖海戦 付表第一 聯合艦隊主要艦艇行動表」


  62. ^ 扶桑は第十駆逐隊(風雲、朝雲)と共に間接護衛隊に編入。「戦史叢書 マリアナ沖海戦」p494


  63. ^ #S1906五戦隊日誌p.2『(一)前月末渾部隊ニ編入セラレ「ダバオ」ニ待機中ノ處二日渾作戰部隊警戒隊(5S 27dg)間接護衛隊(扶桑10dg)ヲ率ヰ「ビアク」島ニ向ケ「ダバオ」ヲ出撃セルモ三日同作戰ノ一時中止ヲ令セラレタルヲ以テ五日「ダバオ」ニ歸投警戒待機ス此ノ間四日払暁敵B-24三機ト交戰ソノ一機ヲ撃墜他ヲ撃退セリ』

  64. ^ ab#あ号作戦日誌(2)pp.20-21『(ハ)第十駆逐隊(1)風雲 渾部隊トシテ第五戰隊扶桑ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ヨリ「ダバオ」回航中ノ所一日同地着、二日渾作戦間接護衛隊トシテ第五戦隊扶桑ト共ニ「ダバオ」出撃「ビアク」ニ向ケ航行中ノ所渾作戰中止反転ス 四日敵哨戒機数機ト交戰戰果被害ナク五日「ダバオ」ニ入港ス、七日渾作戰再興即日「ダバオ」出撃「バチヤン」ニ向ケ警戒航行中ノ處八日0320「セントオーガスチン」岬ノ二四〇度二〇浬ニ於テ敵浮上潜水艦ヲ発見之ガ攻撃ニ向ヒツヽアル中雷撃ヲ受ケ沈没セリ』


  65. ^ #リバイバル戦記コレクション6185頁


  66. ^ #サイパン・レイテ海戦記39頁


  67. ^ #リバイバル戦記コレクション6186頁


  68. ^ #歴群30扶桑型p.175


  69. ^ #野分物語(文庫)202頁『戦艦「扶桑」の内地回航』


  70. ^ #S1812第4駆日誌(8)p.5『十日附 朝雲當隊ニ編入 艦船番号左ノ通リニ定ム 一番艦満潮 二番艦野分 三番艦朝雲 四番艦山雲』


  71. ^ #野分物語(文庫)204頁


  72. ^ #S1812第4駆日誌(7)pp.3-5,11『11月1日0445「ダバオ」発 扶桑ヲ護衛シ「タラカン」ニ向フ』-『11月8日0645横須賀ニ向ケ発扶桑護衛』


  73. ^ #野分物語(文庫)205頁


  74. ^ #S1812第4駆日誌(7)p.5『11月14日0305 浮上潜水艦ニ対シ扶桑照射砲撃ス』


  75. ^ #S1812第4駆日誌(7)p.6『14日 0900宿毛湾入港 扶桑ヨリ燃料補給 終了後扶桑ト解列 1315宿毛湾出発 4dg(朝雲欠)横須賀回航』


  76. ^ #野分物語(文庫)208頁

  77. ^ abcd#回想の提督74-75頁『第二戦隊の新編を主張す』

  78. ^ ab#戦艦十二隻(2014)316-317頁『スリガオ海峡の夜戦』


  79. ^ #戦藻録1979392頁


  80. ^ #S1907十戦隊日誌(3)pp.4-5『(ホ)第十七駆逐隊 (1)磯風浦風 十一日迄ノ経過概ネ矢矧ト同断十二日浜風若月ト共ニ「リンガ」発「リンガ」進出豫定ノ第二戰隊警戒ノ爲呉ニ回航十九日同地着若月ト分離雪風ト合同修理工事施行ノ上二十二日第二戰隊警戒艦竝ニ輸送任務ヲ兼ネ同地発「ブルネイ」ヲ経テ「リンガ」進出ノ途上ニアリ(十月二日「リンガ」着)』


  81. ^ #週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル (6)p.22

  82. ^ abc#海軍駆逐隊(2015)344-346頁『生き残ったもの一隻』

  83. ^ abc#戦艦十二隻(2014)329頁『西村艦隊の大黒柱として』


  84. ^ #サイパン・レイテ海戦記239頁


  85. ^ 実速21kt、艦隊全速20kt


  86. ^ 「戦史叢書 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」p71


  87. ^ #丸 MARU 1月別冊 第二次世界大戦「日本の戦艦」大百科 日本の超弩級戦艦オールカタログp.109『浮かぶ城閣「扶桑」型の血戦記』


  88. ^ #決断と異議p.160、#最上詳報p.7


  89. ^ 「戦史叢書 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」p249


  90. ^ 『雑誌丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』p124


  91. ^ #時雨詳報p.8『一八三〇|最上4dg(d×3)ヲ分離「リゴツト」湾方向ニ偵察掃蕩セシム』


  92. ^ #サイパン・レイテ海戦記197頁


  93. ^ #時雨詳報p.8『二二五〇(二三〇九)|2S時雨敵魚雷艇ト交戦撃退シツツ進撃 以後概ネ終始魚雷艇ニ觸接セラル(戦果時雨一隻撃沈)』

  94. ^ ab#戦艦十二隻(2014)330-331頁『敵ながら天晴れのT字戦法』


  95. ^ #時雨詳報p.8、#最上詳報p.8


  96. ^ #戦艦十二隻(2014)331-333頁『扶桑にむけた集中砲火』


  97. ^ #最上詳報p.16『扶桑右舷中部ニ魚雷命中、右舷ニ傾斜速力低下後落セルヲ以テ山城ニ続行ス』


  98. ^ #時雨詳報pp.9-10『〇三二〇 コノ頃山城ラシキモノ左傾斜後方ニテ奮戦中被雷停止 敵ノ集中砲火ヲ受ケツツアルヲ認メタルモノアリ』、『〇三五〇 扶桑猛烈ナル敵戦艦巡洋艦ノ集中砲火ヲ受ケ火災 〇三五五航行不能トナリタルヲ認ム』(扶桑はアメリカ戦艦からの砲撃を受けていない)


  99. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.19『山城ハ略中央ニ魚雷命中ノ水柱ヲ認メ恰モ船体前後ニ兩断セシ如ク見エタリト云フモノアリ(但シ艦長ハ其ノ時之ヲ承知セズ約三〇分後承知セリ』


  100. ^ #サイパン・レイテ海戦記199頁


  101. ^ #時雨詳報p.37『〇三四八|時雨|扶桑|我貴隊ニ続行ス』


  102. ^ #時雨詳報p.37『〇三五二|(司令官)2S|扶桑|出シ得ル最大速力知ラセ』


  103. ^ #戦艦十二隻(2014)318-320頁


  104. ^ #戦艦十二隻(2014)333頁『名将とともに沈む名艦に栄えあれ』


  105. ^ #霞詳報p.2『前方(約二五粁附近)ニ彼我交戦中ナルヲ認ム』


  106. ^ #阿武隈詳報p.4『第三部隊交戦中ラシキ砲声ヲ聞キ時々照明弾ヲ認ム』


  107. ^ #霞詳報p.3『〇四一八 視界内炎上中ノ艦船三』

  108. ^ ab#サイパン・レイテ海戦記219頁


  109. ^ #阿武隈詳報p.5『最上黒煙ヲ出シ傾斜低速ニテ戦場ヲ離脱シ来ルヲ認ム』


  110. ^ #最上詳報pp.10, 17、#サイパン・レイテ海戦記220頁


  111. ^ #決断と異議p.210


  112. ^ #モリソンの太平洋海戦史328頁


  113. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○夜明頃火災強マリ、総員退去、内火艇ニ移乗ス|○夜明後、籠「マスト」ヲ認ム、次テ20〜30隻艦隊南下シ来リ、朝雲ニ対シ集中射撃ヲ実施シ、遂ニ沈没ス』


  114. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.8『最上及曙 (イ)最上ハ爆撃被害ニ依リ火災再燃、艦危殆ニ瀕スルニ至レルヲ以テ乗員ヲ警戒dニ移乗 (ロ)艦救助ノ途ナシト判断クカハ之ガ處分ヲ(長官)2Fニ申請セシモ回答ナク我又指揮下ニナカリシ處之ガ下命ヲ決シカネツツアリシガ艦ノ状況益々悪化シ最早處分ノ外ナシト認メラルルニ至リdハ之ヲ雷撃處分ス (ハ)曙ハ最上乗員ヲ収容「コロン」ニ向ヒシヲ(長官)2YBヨリ「マニラ」直航ヲ命ジタリ』


  115. ^ #時雨詳報p.52『(對勢)』


  116. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.19『時雨ハ其ノ儘約26ktニ増速電探回避運動ヲ行ヒツツ進撃シタルモ間モナク後續艦ヲ全部見失ヒタルヲ以テ山城ノ状況確認ノ爲反轉間モナク扶桑、最上ヲミトメタルモ山城ハ之ヲ確認スルニ至ラザルヲ以テ更ニ反轉北上扶桑ノ前程ニ就クベク北進中0310/25頃扶桑ハ敵弾ニ依リ全艦火災航行不能トナル(艦首方向東)此ノ際最上ヲ見タルニSSW約一二〇〇〇米附近ニ火災ヲ發シ爾ニ向首シ航行不能トナリタル如ク認ム(兩艦ニ敵弾ノ命中ハ閃光破壊物四散ノ状況恰モ繪ヲ見ル如キ凄惨ナル状況ヲ望見セリ)其ノ他艦影ヲ認メズ又敵弾雨ノ如ク飛來スルモ敵ノ所在全然見當附カズ0312/25頃一應戦場ヲ離脱再擧ヲ決意シ南下ス速力約30kt…』


  117. ^ 「艦長たちの軍艦史」p.20


  118. ^ #10月18日以降増援兵力p.2『方面:北比|地域:マニラ|所轄|扶桑|進出期日(編制期日):1944.10.25|員数:7』


  119. ^ #サイパン・レイテ海戦記238頁


  120. ^ 『雑誌丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』p122〜p127『老朽戦艦扶桑スリガオ海峡に消ゆ』

  121. ^ ab『昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070509300 『内令第七五〇號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃|呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣』


  122. ^ #候補生実務練習報告(4)p.10『五.一|金|呉|免長門乗組被仰付扶桑乗組』


  123. ^ #大正天皇御物語p.137


  124. ^ #第1艦隊廈門回航状況p.3『第一艦隊ノ来厦ニ關シ報告ノ件(略)本月二日午前入港同五日未明馬公ニ向ケ出港(略)』


  125. ^ #高松宮日記2巻320頁『十一月一日 午前「扶桑」へ行く。舟尾(艦尾)切取工事でとても騒々しい(以下略)』


  126. ^ #S1802第17駆日誌(3)pp.30-31『2S機密第210105番電 當隊及十七駆輸送中ノ人員物件左ノ通リニ付之ガ揚搭ニ関シ予メ準備シ置カレ度(以下略)』


  127. ^ 昭和45年11月15日発刊 第1巻・第2号「丸」季刊「Graphic Quarterly(グラフィック・クォータリー)THE MARU GRAPHIC 11/AUTUMN1970」では、大改装後の速力が24.7ktとされている

  128. ^ ab『海軍辞令公報 大正4年2月』 アジア歴史資料センター Ref.C13072070900 


  129. ^ 『昭和19年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1337号』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900 




参考文献



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    • 宇都宮敏雄『軍艦写真帖』(宇都宮本店、1936年)

    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。

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    • Ref.C08030126100 『昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。

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    • Ref.C08030145900 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。 

    • Ref.C08030146000 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。 

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    • Ref.C08030148200 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。

    • Ref.C08030148300 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。

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    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。

    • Ref.C08030051000 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。

    • Ref.C08030146500 『昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。(1944年9月)

    • Ref.C08030589500 『昭和19年10月23日~昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報』。

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    • Ref.C08030579100 『昭和19年10月24日~昭和19年10月26日 軍艦阿武隈フィリピン沖海戦戦闘詳報』。

    • Ref.C08030589900 『昭和19年10月24日~昭和19年10月25日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報』。

    • Ref.C08030589800 『昭和19年10月24日~昭和19年10月25日 駆逐艦潮戦闘詳報』。

    • Ref.C08030589100 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 第7駆逐隊(潮)戦時日誌』。

    • Ref.C14061105800 『捷1号作戦に於ける2YBの作戦経過概要 5F水雷主務参謀 中佐 森幸吉記憶』。

    • Ref.C14061098700 『第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力』。




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  • 小沢提督伝刊行会編 『回想の提督 小沢治三郎』 原書房、1971年3月。

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

  • 『戦艦名鑑』コーエー、1998年。ISBN 4-87719-604-8


  • 小林昌信ほか 『戦艦十二隻 国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮』 光人社、2014年8月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 978-4-7698-1572-3。



    • 元軍令部作戦課長・海軍大佐大前敏一『第二次大戦と日本戦艦十二隻の生涯 国家の興亡を賭けて建造された主力艦隊の生々流転と最後


    • 元「陸奥」運用長・海軍中佐福地周夫『悲劇の戦艦「陸奥」桂島水道に死す』


    • 元「扶桑」乗組砲術指導官付・海軍中尉高橋嘉夫/元甲飛十一期艦務実習生・海軍上飛曹古屋一彦『私は陸奥爆沈の決定的瞬間を見た 桂島泊地の第一艦隊を震撼させた謎の一大火柱の真相


    • 元「扶桑」艦長・海軍少将古村啓蔵『戦艦「扶桑」レイテ出撃とその戦訓』


    • 戦史研究家伊藤一郎『南溟に映える戦艦「山城」最後の英姿 悲壮な使命をおびてスリガオ海峡に突入した西村部隊旗艦の死闘



  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-76-981246-9


  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年。
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    • 武運と幸運と <戦艦「扶桑」艦長・鶴岡信道少将の証言>(太平洋戦争時、北上艦長、扶桑艦長、第3護衛団司令官、第31戦隊司令官等)


  • 佐藤静夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月。
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  • カール・ソルバーグ著、高城肇訳 『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』 光人社、1999年。
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  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第一巻 大正十年一月一日~昭和七年十二月三十一日』 中央公論社、1996年3月。
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    宣仁親王は1924年(大正14年)5月1日から少尉候補生として扶桑乗組。1933年(昭和8年)12月15日、海軍大尉として扶桑分隊長(主砲後部砲台長)。翌年11月、海軍大学校入学のため退艦。

  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』 中央公論社、1995年6月。
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  • 寺内正道ほか 『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』 潮書房光人社、2015年9月。
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    • 戦史研究家村井至『太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘


  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。
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  • 藤田千代吉ほか 『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』 光人社、1990年7月。
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  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』、1968年

  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、1972年

  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書88 海軍戦備(2) 開戦以後』 朝雲新聞社、1975年10月。

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦I』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0451-2

  • 雑誌「丸」編集部『丸エキストラ 5月号別冊「戦史と旅」34』光人社、2002年

  • 雑誌「丸」編集部『丸 2013年 08月号』光人社、2013年

  • 雑誌「丸」編集部『丸 2014年 07月号』光人社、2014年

  • サミュエル・モリソン、大谷内一夫訳 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年8月。
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  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ30 『扶桑型戦艦日本初の超弩級戦艦「扶桑」「山城」、その誕生と最期』 学習研究社、2001年1月。
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  • 歴史群像シリーズ『日本の戦艦』学習研究社、2004年。ISBN 4-05-603411-7

  • 『官報』

  • 昭和45年11月15日発刊 第1巻・第2号「丸」季刊「Graphic Quarterly(グラフィック・クォータリー) THE MARU GRAPHIC 11/AUTUMN1970」



関連項目



  • 扶桑

  • 扶桑 (甲鉄艦)

  • 扶桑型戦艦

  • 戦艦一覧

  • 大日本帝国海軍艦艇一覧



外部リンク




  • ひろしま戦前の風景 - [12]広島湾と戦艦見学会 中国放送(RCC)。広島港で行われた長門の見学会に巡航する扶桑の映像がある。


  • FUSO - 英文、スリガオ海峡夜戦Mapと扶桑の夜戦時イラスト有り





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