土俵
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土俵(どひょう)とは、土を盛って作る相撲の競技場である。俵に土を詰めた袋(土俵)を使っているため特に土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、これを縮めた呼称である。
目次
1 構造
1.1 屋根・房
1.2 土
1.3 周辺用具
2 歴史
3 神事
3.1 女人禁制
4 エピソード
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
構造
現代の大相撲では、一辺が6.7メートル(22尺)の正方形に土を盛り、その中央に直径4.55メートル(15尺)の円が勝負俵(計16俵)で作られていて、その円の東西南北4ヶ所に徳俵(計4俵)と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられている。円の外側には正方形の形で角俵(計28俵:各一辺7俵の俵)を配置、その正方形の角には、あげ俵(計4俵:各角にそれぞれ1俵)が配置され、土俵に上がる段のための踏み俵(計10俵:土俵の周りに東・西・南部分に各3俵、北部分に1俵)、南西・南東には力水のための水桶を置く水桶俵(計4俵:各2俵)が配置され、合計して66俵を使用する。
かつては俵を四角に配した角土俵が主流で、現在使われる丸土俵は江戸時代に現れて併存した後、入れ替わったとされる。後述するように、角土俵が現存する地域もある。岡山県勝央町植月地区では、角土俵による奉納相撲が小学校行事として現在も行われている[1]。
俵は主に稲藁を細い俵状に編んだものが使用され、中には土が入れられている。地方自治体で設置された土俵では頑丈なシートで俵を作成する場合もある。
土俵は呼び出しが毎場所手作業で作る。完成すると、本場所の初日前日に土俵祭が行われる。
俗に「土俵には金が埋まっている」と言われるが、これは「土俵で出世すれば金が入ってくる」と取的を励ますための比喩表現で、実際には金ではなく、縁起を担ぐ意味で勝栗や昆布、米、スルメ、塩、榧の実が神への供物として土俵祭の際に埋められる。
土俵の土は、若干粘土質が混じった物が使用される(後述)。これは土を盛ったとき型崩れしにくく、振動にも強いためでもある。また、勝負俵の内側には若干の砂質の土が撒かれている。力士の足首への負担を減らすなどの安全対策でもある。また、勝負俵の周囲にも円形に砂が撒かれている。これは勝負俵から力士の足が出たかどうか判別する時に砂に足跡が残り、審判が下しやすいためでもある。これを蛇の目(じゃのめ)と呼ぶ。
土俵中央には幅6センチ・メートル、長さ90センチ・メートルの仕切り線が70センチ・メートル間隔で2本。エナメル・ペイントで描かれている。この仕切り線も呼び出しが描く。仕切り線は力士たちの取組によって踏み荒らされて剥がれてしまうため、2 - 3日に一度描き直しの作業が行われる。仕切り線は1928年1月場所から始まったNHKラジオの実況中継にあわせて設けられた。
俵に太ももを打つことを角界の隠語で「メリケンが入る」という[2]。
屋根・房
土俵の上には、方屋があり明治に東屋作りから切妻で千木と堅魚木(千木・鰹木)を持つ神明造りに変えられた。屋根の四隅(東西南北、正しくは東北、東南、西南、西北)の柱は、本場所においては1952年(昭和27年)の秋場所より廃止されて吊屋根となり、代わって四隅に房が下げられる様になった。これは、正式には房では無く四本柱に巻きつけられていた同色の布の名残で、柱の代わりに太い房を吊るようになったものである[3]。房の色は天空の四方位をそれぞれ司る四神に由来しており、青い(緑色の)房(青房)は東方を守護する青龍、白い房(白房)は西方を守護する白虎、赤い房(赤房)は南方を守護する朱雀、紫または黒の房(黒房)は北方を守護する玄武を表している(地域によって順序が異なっている事がある)。四隅の房は絹糸を寄り合わせて作られ、サイズは2.3m、太さが70cm、重さ25kgである。屋根の裏には照明機材が備え付けられている。
両国国技館の吊屋根は、2本のワイヤーで上下させられる常設式のもので、相撲開催時以外は天井まで巻き上げられる。総重量は照明機材を含めて6.25トン[4]。地方場所の会場(大阪府立体育会館・愛知県体育館・福岡国際センター)の吊屋根は軽量の組立式で、場所が終わると分解され、各都市の倉庫に収納される。
大相撲の土俵から四本柱を無くす際には、賛成派の意見として「土俵が見にくい」というものが、反対派の意見として「風格がなくなる」というものがあった。反対派の意見として理詰めなものとなれば「柱があることによって土俵内で動いている場所が分かるから、柱が動きを変えるめどになる」「突き飛ばされた時も、つかまって転落するのを防げるから危険防止になる」というものが見られた[5]。
なお屋根の水引幕東西南北の中央に小さい房が下げられており、これが本来の房と言われるものである。
土
日本相撲協会では「荒木田土」に統一している。元々は、国技館近くを流れる荒川流域の東京都内でも採れたが、現在の両国国技館では埼玉県川越市で採取された土が使われている。粘性が高く、砂が適度(30%程度)混じっていて滑りにくく、大きな砂利やゴミの混入がないものが選ばれている[6]。総重量はおよそ45トン。
2017年名古屋場所までは年3回の地方場所では現地調達していたが、力士から「滑りやすい」との指摘を受け、同年九州場所以降の地方場所でも川越から大阪・名古屋・福岡の各会場に輸送して使用される[7]。
周辺用具
水桶、塩箱共に呼び出しが補充などを行う。
- 水桶 - 力水が入れられており、桶の中段にはタオルが置ける棚がある。
塩箱 - 縦横50センチ・メートル、深さ40センチ・メートル。
歴史
相撲において古来、相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したという。これが土俵の起源である。江戸時代に大相撲興行が始まり、「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。このため、まず寛文年間(1661 - 1673年)にリングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。
次に大相撲では延宝年間(1673 - 1681年)に、東屋作りの屋根の下に四神を表す4色の布を巻いていた柱の方屋の下に、五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(1716 - 1736年)、俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。
1791年(寛政3年6月11日)、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲に際して、吉田司家の吉田追風が前日に一夜で土俵を作り、初めて「方屋開」を行った。明治に方屋の屋根を神明造りにした。
1928年(昭和3年)1月12日からNHKのラジオ放送による大相撲中継が始まった際、放送時間内に勝負を収めるために、それまでは無制限だった仕切りに制限時間を設定。土俵に仕切り線を設けた。1930年(昭和5年)3月場所になると、観客の視界の妨げになること、力士の怪我の原因になることを理由に、土俵上に座っていた勝負検査役を土俵下におろし、5人とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた[8][3]。さらに、1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし径4.55メートル(15尺)の一重土俵に変更された。俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時より俵の外側に撒かれる様になったものである[3]。
なぜ13尺土俵から15尺土俵になったかという理由については、当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽などの6尺(約182㎝)を優に超える大型力士が台頭したため、あまり早く勝負が決まらないようにして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという説が有力である[3]。
土俵サイズは、1945年(昭和20年)の秋場所において4.84メートル(16尺)[注釈 1]にしたが、力士会の反対で11月の一場所かぎりで径4.55メートル(15尺)の現在の土俵に変更された。また土俵上の柱は1952年(昭和27年)秋場所より撤去され、屋根は天井から吊り下げる形式に変更された。
神事
土俵は、力士が入場の際に柏手を打つなど神がいる場所とされてきた。柏手については相撲の宗家である吉田司家の許可に基づいている。
東京両国国技館の本場所前々日に野見宿禰神社(東京都墨田区)で日本相撲協会の幹部、審判部の幹部、相撲茶屋等関係者が集まり、出雲大社教神官の神事が執り行われる。
また、各場所の初日前日に日本相撲協会の幹部、審判委員の親方などを集めて土俵祭が行われる。内容は土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを封じ、相撲の三神(タケミカヅチほか二神)と幣束を7体祭り、立行司が祭主で介添えの行司が清祓の祝詞を奏上し、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して終わる。これは1791年(寛政3年)6月11日、江戸幕府の第11代征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲で、吉田追風が前日に土俵を作った際「方屋開」として始めたものである。これにより、千秋楽にその場所の新序出世力士によって行司を胴上げする「神送りの儀式」によって神を送るまでの間、土俵には神が宿るとされている。
現在は横綱が行う一人土俵入りは、四股で邪悪なものを踏み鎮める地鎮祭と同じ意味である。
女人禁制
日本相撲協会主催の大相撲など伝統を重んじて土俵は神聖な場所で女人禁制とされている。
近代では以下のような事例がある。
- 子ども相撲や女相撲など女子も参加する大会はある。
- 「わんぱく相撲全国大会」は男子が対象とされ、女子は出場できない。わんぱく相撲の地方大会は地域親善の色合いが強いとして女子の参加を認めている[9]が、女子が優勝することも当然有り得る。
1978年(昭和53年)、「わんぱく相撲東京場所」で10歳の少女が勝ち進んだが、蔵前国技館の土俵に上がれず決勝大会出場を断念した。
1991年(平成3年)、「わんぱく相撲美馬大会」で小学5年生の女子が優勝したが、両国国技館の土俵は女人禁制であるとして、全国大会出場権を示すメダルは2位の男子に授与された[9]。
1989年(平成元年)、森山真弓官房長官が総理大臣賜杯授与を行いたいと明言したが、相撲協会が拒否し、この際には女性差別問題を含め議論を呼んだ。
2004年(平成16年)、太田房江大阪府知事も知事杯授与を希望する旨表明したが、やはり相撲協会が難色を示し、知事杯の授与は男性副知事が代理して行われた。この決定に対し、大阪市内のNPO法人が性差別を助長する行為として太田府知事を相手取り、知事賞の費用を府に返還するよう求めた。「男女共同参画社会実現への積極性に欠けるとして政治的責任が議論される余地はあっても、性差別を助長する行為とはいえない」としてこの請求は棄却されたが、大阪府監査委員は「(代理授与は)決して好ましいこととは言えない」として知事賞の授与停止を検討するよう太田府知事に勧告した。
2018年(平成30年)4月4日、春巡業「大相撲舞鶴場所」(京都府舞鶴市)で、土俵上で挨拶していた多々見良三舞鶴市長がくも膜下出血で突然倒れ、複数の女性が駆け寄り、そのうちの1人は医師でもある多々見市長がかつて院長を務めた病院の看護師であった。[10]観戦に来ていた市長のかかりつけの病院の看護師も含まれ、俵に上がって救命措置をとっていたところ行司が「女性の方は土俵から降りてください」「男性がお上がりください」などと場内アナウンスしていた[11][12][13]。場内アナウンスについて、実行委員会は当初「救急隊員に処置を引き継いだ後に放送が流れた」と説明していた[14]が、会場にいた人物によって撮影された映像がYouTubeに投稿され[15]、事実に誤認があったことが発覚。日本相撲協会理事長の八角親方は場内アナウンスについて「人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫び申し上げます」というコメントを出した[11]。また、市長の救命措置が終わった後には、土俵の上に大量の塩が撒かれた[12][13][16]。これについて、事業部長の尾車親方は「本場所でも稽古場でもアクシデントがあったときに連鎖を防ぐために塩をまいている」「女性蔑視のようなことは全くない」と、女人禁制に関連した行いではないと強く否定している[13][16]。一連の出来事は日本以外のメディアからも注目され、ワシントン・ポスト電子版では「女性が直面する壁が明確にあらわれた事例」として性差別と関連付けて報じられたほか、ウォール・ストリート・ジャーナルでは「女性が初めて土俵に入ったきっかけが男性の命を助けるためだった」ことを皮肉交じりの見出しで伝えた上で、「日本の伝統的、そして文化的な分野で女性が置かれている不平等な立場に注目が集まった」と報じている[17]。
なお、かつては女相撲の興行もあり、実際に土俵上で行われていた。
エピソード
1998年(平成10年)1月場所4日目、幕下取組の大鷹山-谷地戦で、谷地が肩から土俵下に落ちた際、正面黒房寄りの角に近い部分の土がぼこっと崩れて大きな穴が開いてしまった。この日は土俵の土が非常に乾いており、表面がカサカサになってヒビ割れたところに谷地が落ちたため崩れたらしい。取組には支障がないが、相撲が続く間は修復することができず、幕内取組の前に呼び出しがビール瓶で叩くなどして応急処置を施した。
台湾の桃園市大渓区では2017年9月、日本統治時代にあった土俵が復元された[18]。
脚注
注釈
^ 桑森真介『大相撲の見かた』(平凡社新書、2013年5月 [要ページ番号])には筆者本人が所属する研究グループが行った実験について記述があり「私たちの研究グループでは、直径16尺(4m85cm)の拡大土俵と、直径15尺(4m35cm)の両方で学生の相撲選手に相撲を取ってもらい、体重の軽い側が勝つ率、決まり手数、競技時間を比較した。土俵を拡大すると、体重差が10%以上ある取組では、体重の軽い方が、30番行うと2・3番多く勝つことができるようになると分かった。決まり手数と競技時間は、土俵を拡大しても大きな影響は見られなかった。」という内容が確認できる。
出典
この節の加筆が望まれています。 主に: 脚注形式での出典の明記 (2015年6月) |
^ 植月佐広「角土俵 ノコッタノコッタ◇岡山・勝央町に唯一現存、500年以上の歴史を守る勝負◇」『日本経済新聞』朝刊2018年11月7日(文化面)2018年11月8日閲覧。
^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p76
- ^ abcd『大相撲ジャーナル』2017年6月号62-63頁
^ 土俵 大相撲ドットコム
^ 『大相撲中継』2017年5月27日号99頁
^ 大相撲の土俵に川越「荒木田土」初野建材が全場所制覇/スポーツ用 拡販に意欲『日刊工業新聞』2018年8月10日(中小企業・地域経済面)2018年10月28日閲覧
^ 両国の土は埼玉県川越市の荒木田土、地方でも使用へ - 日刊スポーツ 2017年8月30日
^ 「四本柱から見るから土俵全体が見える。土俵下では反対側が見えない」という検査役の主張がまかり通っていたため、柱のそばに座っていた検査役を土俵の下に降ろすに至るまでには苦労があった。
- ^ ab“少女横綱に「待った」 国技館の土俵上がれず 主催者「全国大会は男子が対象」”. 朝日新聞夕刊. (1991年7月3日)
^ 出典:http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/events/news/180405/evt18040522110024-s1.html“「下りなさい」相撲協会員、口頭でも直接指示”. 産経新聞. (2018年4月5日)
- ^ ab“土俵で心臓マッサージしていた女性に「降りて」 京都”. 朝日新聞. (2018年4月4日). https://www.asahi.com/articles/ASL44739ML44PLZB017.html 2018年4月5日閲覧。
- ^ ab“「土俵から降りて」市長を救命の女性は看護資格あり、その後大量の塩撒かれる”. 毎日放送. (2018年4月5日). http://www.mbs.jp/news/kansai/20180405/00000027.shtml 2018年4月5日閲覧。
- ^ abc“尾車事業部長、土俵に大量の塩も女性蔑視は全くない”. 日刊スポーツ. (2018年4月5日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000633.html 2018年4月6日閲覧。
^ “救命処置の女性に「土俵下りて」、相撲協会謝罪”. 読売新聞. (2018年4月5日). http://www.yomiuri.co.jp/national/20180404-OYT1T50190.html 2018年4月5日閲覧。
^ “舞鶴:倒れた市長の救命女性に相撲協会「土俵から下りて」”. 毎日新聞. (2018年4月4日). https://mainichi.jp/articles/20180405/k00/00m/040/131000c 2018年4月5日閲覧。
- ^ ab“相撲協会・尾車事業部長 人命尊重明言、大量の塩は女性が土俵に上がったためではないと強調”. スポーツニッポン. (2018年4月5日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000633.html 2018年4月6日閲覧。
^ “女性が土俵 海外メディアも大きく伝える”. NHKニュース (日本放送協会). (2018年4月5日). オリジナルの2018年4月6日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20180406060157/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180405/k10011392311000.html 2018年4月6日閲覧。
^ 「台湾で日本時代の土俵“復活”アマ選手が取組を披露」産経新聞ニュース(2017年9月17日)
参考文献
この節の加筆が望まれています。 (2015年6月) |
- 桑森真介 『大相撲の見かた』 平凡社〈平凡社新書 684〉、2013年5月。ISBN 978-4-582-85684-2。
関連項目
- 相撲用語一覧
木内八郎(土俵作り職人)
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