スペイン共産党
スペインの政党 スペイン共産党 Partido Comunista de España | |
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書記長 | ホセ・ルイス・センテリャ |
名誉委員長 | ドローレス・イバルリ (eternal title)[1] |
創立 | 1920年11月[2] |
合併元 | Partido Comunista Español Partido Comunista Obrero Español |
前身政党 | スペイン社会労働党[3] |
本部所在地 | パリ(地下活動期)[2] マドリード |
機関誌 | Mundo Obrero(労働者の世界) Utopías-Nuestra Bandera |
青年部 | Unión de Juventudes Comunistas de España |
党員・党友数 | 35,000人[4] |
政治的思想 | ユーロコミュニズム[3] |
政治的立場 | 左派 |
国内連携 | 統一左翼 |
欧州連携 | 欧州左翼党 |
欧州議会会派 | 欧州統一左派・北方緑の左派同盟 |
公式カラー |
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国会下院議席 | 5 / 350 (統一左翼内で) |
国会上院議席 | 2 / 266 (統一左翼内で) |
欧州議会議席 | 1 / 54 (統一左翼内で) |
公式サイト | |
www.pce.es | |
スペインの政治 スペインの政党一覧 スペインの選挙 ホセ・ルイス・センテージャは、2009年11月の党大会で書記長に選出[5] 下院議席数は統一左翼(IU)獲得議席8のうち5議席が割り当てられた。 |
スペイン共産党(スペインきょうさんとう、スペイン語: Partido Comunista de España[2], 略称: PCE)は、スペインの政党で、ユーロコミュニズムを理念とする政党である。
目次
1 概要
1.1 ユーロコミュニズムとスペイン共産党
2 日本共産党との関係
3 年表
3.1 党勢推移
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
概要
1922年3月、前年1921年4月にスペイン社会労働党(PSOE)から分かれたグループによって結成された。1936年2月の総選挙で共産党と社労党及び他の左翼政党、中道勢力が連合して人民戦線を結成、勝利し、政権を担ったが、人民戦線政府に反発した大地主や貴族を中心とした右派・保守勢力の支持を受けた軍部が蜂起、内戦が勃発した(スペイン内戦)。当初、共和政府側が優勢だった内戦は内ゲバによる足並みの乱れもあり、最終的にフランコ率いる反乱軍の勝利に終わった。
フランコ独裁体制下ではスペイン共産党は非合法化された。そのため地下活動を余儀なくされたが、独裁者フランコが1975年に死去した後に即位したフアン・カルロス1世の下で行なわれた民主化政策の進展により、1977年4月に合法化、同年6月に行なわれた41年ぶりの総選挙では下院で19議席。79年の総選挙では23議席を獲得したが、ユーロコミュニズムに反対する親ソ連派(親ソ派)やカリーリョ書記長の党支配に反対するグループとの内部抗争で党が分裂、1982年の総選挙では議席を大幅に減らした。1986年以降は、社会労働党以外の左翼勢力と政党連合「統一左翼」(Izquierda Unida:IU)を結成して、選挙に臨んでいる。
ユーロコミュニズムとスペイン共産党
スペイン共産党はサンティアゴ・カリーリョ(Santiago Carrillo)書記長の元、イタリア共産党やフランス共産党と共に、ソビエト連邦共産党と距離を置き独自の社会主義を模索するユーロコミュニズムの旗手として活躍した。1977年6月の総選挙の翌年に開催された第9回党大会において、党規約から「レーニン主義」を削除し、社会民主主義でもスターリン主義でもない「真のユーロコミュニズム」の確立を提唱、自由と民主主義を保障しながら社会主義を実現することを謳った「テーゼ15」を採択した。
日本共産党との関係
日本の共産主義政党である日本共産党は、2003年12月の統一左翼の大会[6]、2005年6月に行なわれたスペイン共産党の第17回大会に、浅田信幸「しんぶん赤旗」欧州総局長を代表として派遣すると共に、中央委員会名でメッセージも送っている[7]。また、スペイン共産党も、2006年1月に行なわれた日本共産党第24回大会にメッセージを寄せている[8]。
年表
年 | 月日 | 出来事 |
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1922年 | 3月14日 | スペイン共産党が結成される。 |
1936年 | 2月16日 | 総選挙。共産党も参加したマヌエル・アサーニャ率いるフレンテ・ポプラール(人民戦線)が勝利 |
7月18日 | 貴族や保守勢力の支持を受けたフランコ将軍が蜂起、スペイン内戦が勃発 | |
1939年 | 3月31日 | スペイン内戦はフランコ率いる反乱軍の勝利で終結。共産党を含む全ての政党は非合法化された。 |
1974年 | 7月30日 | 共産党など10余の政治団体が参加した民主評議会(JDE)がフランス・パリで旗揚げ |
1975年 | 11月20日 | 独裁者フランコ死去(83歳)。 |
1976年 | 7月28日 | 共産党、イタリア・ローマの芸術劇場で民主化過程への参加を表明。国内外の党員名を発表。 |
10月 | 国内で地下活動をしていた党員に党員証を発行 | |
12月10日 | 国内の主要な政治団体のトップが参加した『九人会』発足。共産党書記長カリーリョは、スペインで記者会見し、政府に対し、共産党の存在を認めさせるべく、挑戦状をたたきつけた。 | |
12月22日 | カリーリョ逮捕(同月30日に釈放) | |
1977年 | 1月26日 | 24日に、極右組織によるテロで暗殺された共産党系弁護士5名の葬儀において、カリーリョが公衆の場に姿を見せた。 |
2月11日 | スペイン共産党、内務省に政党としての登録を申請。内務省は判断を留保。 | |
2月27日 | スアレス首相と、カリーリョ書記長が秘密会談。 | |
3月2日 | マドリードにおいて、イタリア共産党書記局長・エンリコ・ベルリンゲル、フランス共産党書記長ジョルジュ・マルシェ、そしてスペイン共産党書記長のカリーリョによるユーロコミュニズム首脳会談が行われる。 | |
4月9日 | 新政治結社法に基づいて2月11日に内務省に申請していた政党登録申請が認められ共産党合法化 | |
5月13日 | スペイン共産党前書記長のドローレス・イバルリ(パショナリア)が亡命先のソ連・モスクワより37年ぶりに帰国 | |
6月15日 | 第一回総選挙、共産党は下院で19議席を獲得(得票率9.3%) | |
1978年 | 4月19日 | 合法大会としては46年ぶりとなる第9回党大会がマドリードで開催(23日まで)。レーニン主義を放棄した「テーゼ15」を採択 |
1979年 | 3月1日 | 第二回総選挙。前回を上回る議席数を得て善戦健闘 |
4月3日 | 48年ぶりとなる地方選挙が実施される。共産党は大都市部で勝利 | |
4月18日 | 地方自治体首長に関する協定に社労党と共産党が調印 | |
1981年 | 7月28日 | 第10回党大会(31日まで)、カリーリョ書記長再選。党大会の場でカリーリョ書記長は党内の親ソ派を攻撃 |
10月24日 | 共産党本部、バスク支部を解散処分 | |
11月5日 | 共産党本部は、バスク共産党とバスク革命党合併支持派16名を懲戒処分とした。 | |
11月6日 | 共産党執行部中央委員6名を罷免。同月12日脱党処分。 | |
11月10日 | バスク共産党書記長であるレルチュンディ脱党処分に | |
11月16日 | レルチュンディ派がスペイン共産党を離党 | |
1982年 | 1月9日 | 党地方議員41名が、共産党本部に抗議の意思を示すため辞任 |
10月28日 | 第三回総選挙、共産党は前回より議席を大幅に減らして惨敗(23→4) | |
11月6日 | カリリョ書記長、総選挙において議席を大幅に減らした責任を取って書記長を辞任。後任にヘラルド・イグレシアス(Gerardo Iglesias)を推薦、翌日党承認。 | |
11月14日 | 知識人や芸能人の共産党員が大量脱党 | |
1982年 | 1月26日 | カタルーニャにおけるスペイン共産党の組織であるカタルーニャ統一社会党(PSUC)がユーロコミュニズム派と親ソ派に内部分裂 |
4月9日 | カタルーニャ統一社会党離党派が新たにカタルーニャ共産党を結成 | |
1983年 | 12月18日 | イグレシアス書記長再選。 |
1984年 | 1月15日 | 親ソ派のイグナシオ・ガジェーゴが新党「共産党[9]」を設立したことで共産党分裂 |
1985年 | 3月31日 | カリリョ、共産党執行部と中央委員会からの退陣拒否。ただし、国会スポークスマンは罷免された。 |
1986年 | 4月18日 | エンリケ・リステルのスペイン共産主義労働者党、共産党に再合流 |
4月28日 | 共産党を中心に非社労党系左翼政党4党で『統一左翼』(IU)結成 | |
6月22日 | 第四回総選挙、統一左翼は7議席を獲得 | |
1987年 | 11月10日 | 共産党が対テロ防止協定に調印したことで統一左翼に亀裂が生じる |
12月5日 | 改進同盟が統一左翼を脱退 | |
1988年 | 2月19日 | ヘラルド・イグレシアスが共産党書記長を辞任 |
2月20日 | フリオ・アンギータ(Julio Anguita)、共産党の新書記長に就任 | |
1998年 | 12月 | フリオ・アンギータ、健康上の理由で党書記長を辞任。後任はフランシスコ・フルートス(Francisco Frutos) |
2005年 | 6月26日 | 第17回党大会をマドリードにおいて三日間の日程で開催 |
2009年 | 11月9日 | 第18回党大会にてホセ・ルイス・センテージャを書記長に選出 |
出所:碇順治『スペイン静かなる革命 -フランコから民主へ-』彩流社
この節の加筆が望まれています。 |
党勢推移
選挙 | 年月日 | 得票数 | 得票率 | 議席数 |
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1977年総選挙 | 1977年6月15日 | 1,709,890 | 9.33% | 19 |
1979年総選挙 | 1979年3月1日 | 1,938,487 | 10.77% | 23 |
1982年総選挙 | 1982年10月28日 | 846,515 | 4.02% | 4 |
出典:スペイン内務省ホームページ。尚、1986年以降はIUで選挙に参加している。1986年以降の選挙結果については統一左翼 (スペイン)#選挙における党勢推移を参照。
脚注
^ El Referente
- ^ abcブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク. 2018年12月21日閲覧。
- ^ ab日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2018年12月22日閲覧。
^ Entre coalición y partido, la evolución de modelo organizativo en IU, Luis Ramiro Archived 2012年3月26日, at the Wayback Machine.
^ “José Luis Centella, elegido nuevo Secretario General del PCE(スペイン共産党の新書記長を選出、ホセ・ルイス・センテージャ”. PCE(スペイン共産党) (2009年11月9日). 2011年11月26日閲覧。
^ “統一左翼が大会 イラクからの撤兵を要求”. しんぶん赤旗. (2003年12月23日). http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-12-23/07_02.html
^ “スペイン共産党大会開幕”. しんぶん赤旗. (2005年6月26日). http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-26/07_02_0.html
^ “メッセージを寄せた外国の党を紹介”. しんぶん赤旗. (2006年1月13日). http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-13/2006011302_02_1.html
^ 1986年にスペイン人民共産党(PCPE)に党名改称
関連項目
- ユーロコミュニズム
- 自主独立路線
- 共産党
- 23-F
外部リンク
- スペイン共産党公式サイト
統一左翼(IU)公式サイト - スペイン共産党が中心となった左翼勢力の選挙連合組織
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