シティ・オブ・ロンドン























































































































































シティ・オブ・ロンドン
City of London
—  シティおよびカウンティ  —


テムズ川南岸からみたシティ・オブ・ロンドン(2015年9月)









紋章

愛称:the Square Mile, the City
標語:Domine Dirige Nos
("主よ我らを導き給え")


グレーター・ロンドン内におけるシティ・オブ・ロンドン
地位
スイ・ジェネリス; シティおよびカウンティ
主権国家
イギリスの旗 イギリス
構成国
イングランドの旗 イングランド
リージョン ロンドン

ローマ人の入植
紀元後47年頃
ロンディニウム

ウェセックス再植民
紀元後886年
区 (Wards)
行政
 - 議会 シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション
 - ロンドン市長

Andrew Parmley
 - 市書記
John Barradell
 - 行政府所在地 ギルドホール(英語版)
 - ロンドン議会議員
Unmesh Desai (Lab) (City and East区選出)
 - 英国議会議員

Mark Field (Con) (Cities of London and Westminster区選出)
面積
 - 計
2.90km2 (1.1mi2)
最高部 21m (69ft)
最低部 0m (0ft)

人口 (2011)
 - 計 8,072人
 - 順位

325位(全326地区中)

民族構成 (2011)[1]
 - 百分率

  • 57.5% イギリス系白人

  • 2.4% アイルランド系白人

  • 0% ジプシー系白人またはアイリッシュ・トラベラー

  • 18.6% その他の白人

  • 0.5% 白人とカリブ系黒人の混血

  • 0.5% 白人とアフリカ系黒人の混血

  • 1.5% 白人とアジア系の混血

  • 1.4% その他の混血

  • 2.9% インド系

  • 0.2% パキスタン系

  • 3.1% バングラデシュ系

  • 3.6% 中国系

  • 2.9% その他のアジア系

  • 1.3% アフリカ系黒人

  • 0.6% カリブ系黒人

  • 0.7% その他の黒人

  • 0.9% アラブ系

  • 1.2% その他の民族

等時帯
GMT (UTC)
 - 夏時間

BST (UTC+1)
郵便コード EC, WC, E
ONSコード 00AA
市外局番 020
守護聖人 聖パウロ
警察機関 ロンドン市警察

ロンドン交通局ゾーン

ゾーン1; コンジェスチョン・チャージ・ゾーン
ウェブサイト cityoflondon.gov.uk

シティ・オブ・ロンドン(英: City of London)は、イングランドのロンドン中心部に位置する地区[注釈 1]である。周辺地域とコナベーションを形成し[3]、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない[注釈 2]。単にシティ(the City)、またはスクエア・マイル(the Square Mile)とも呼ばれる[4][注釈 3]。シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している[注釈 4]。この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である[注釈 5]。2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長(Mayor of London)と異なる。


シティは英国のGNPの2.5パーセントに貢献しており[5]、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとして[注釈 6]ニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し[6]、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している[7][注釈 7]


1990年代初期に、IRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した[注釈 8][注釈 9]。居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6,700人の昼間人口がある[9]




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 マグナカルタまで


    • 1.2 国際金融市場の形成


    • 1.3 経済格差と人口流出


    • 1.4 金本位制を離脱するまで


    • 1.5 英国病の発見まで


    • 1.6 ロンドン自治区として




  • 2 警察


  • 3 消防


  • 4 名所


    • 4.1 歴史的建造物


    • 4.2 超高層建築物




  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献


  • 7 外部リンク





歴史



マグナカルタまで


現在の連合王国のローマ人による侵略は、紀元43年頃に始まった。彼らの、現在のシティにおける本来の意図は、テムズ川に橋を掛け(現在のロンドン橋)、既にあったローマ人居住区間の行き来を可能にすることであった[注釈 10]。しかし川の利用価値に気づいた[注釈 11]。そこで紀元50年頃に川の北岸に居留地を作り、ロンディニウム(Londinium)と名付けた。


3世紀末に反乱がおき(Carausian Revolt)、4世紀後半にハドリアヌスの長城が破られた。ピクト人、サクソン人、スコットランド人ら地元勢力が力を示した。410年ホノリウスが諸都市に自衛を命じてブリテン島の防衛を放棄してしまった。6世紀にアングル人とサクソン人の部族国家が生まれ、七王国の基礎となった。9世紀、ベオルンウルフが凋落しアルフレッド大王が台頭した。この時代にロンドンは再入植のうえ独立行政区となった。10世紀初頭ムスリムの世界的な商圏で銀貨の不足がおこり、交易ルートの北限であったヴァイキングの侵攻に隙が生まれ、アゼルスタンがデーンロウの奪還に成功した。ウェセックスによる開拓地であったシティは、ドゥームズデイ・ブック(1085年)にも載らなかった。


12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた(ロンバード・ストリート)。このころシティ議会の原型が生まれた[注釈 12]。1215年のマグナ・カルタがシティの国際市場化するきっかけとなった。シティは、1203年までに24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった[注釈 13]。シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ[10]。区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者ギルドが多くの代表を出した。



国際金融市場の形成


1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった[注釈 14]。5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た(Company of Merchant Adventurers to New Lands)。1570年、トーマス・グレシャムと彼の国際人脈がシティに王立取引所(Royal Exchange)を設けた。これは欧州アントウェルペンのそれを模したものであった。銘柄と郵便の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。1592年レバント会社が設立され(Levant Company)、その運営が東方問題を国際経済面で惹起した。1616年ジョン・リーマン(John Leman)がシティの長となった。1636年、チャールズ1世の御用金融家(Philip Burlamachi)が政府の手形交換所として中央銀行を構想した。清教徒革命でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。1666年ロンドン大火でフリート・ストリートが燃えた[注釈 15]。1672年ホア銀行(C. Hoare & Co)が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。


1720年、南海泡沫事件が起こる。1725年、減債基金を流用していたロバート・ウォルポールのシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。1750年にウェストミンスター橋ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。それから十数年、モスクワ会社のアンガースタイン(John Julius Angerstein)がシティで青年期をすごした[11]。1760年、ジョージ3世の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。2年後ベアリングス銀行が設立された。1773年にロンドン証券取引所が誕生した。翌年ジョン・ウィルクスがシティの長となった。このころイーストエンドのスラム化が社会問題であった。シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった[注釈 16]。19世紀初頭の大陸封鎖令に政府が対抗措置をとった。これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド(Abraham Goldsmid)が自殺した。ベアリングと並ぶ英国債引受者であった。米英戦争が終わるとシティは世界一の国際金融市場となっていた[注釈 17]



経済格差と人口流出


1822年10月、ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは五国同盟を脱退した。1823年、シティのブローカー兼ジョバーであったデヴィッド・リカードが死んだ。1825年の恐慌(Panic of 1825)で、イングランド銀行総裁(Cornelius Buller)と姻戚であったポール・ソーントン銀行(Pole, Thornton & Co.)が中央銀行から支援を得たが倒産[12]、ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクとなった。1837年恐慌では「3W(the three W's)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた[注釈 18]。彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。この1830年代にはスミスフィールドの市に対する課税額が引き上げられた。1851年、海底ケーブルがドーバー海峡で開通した。1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所(LCH)へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった[13]


保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かった。シティの経済構造は、クリミア戦争の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇までの19世紀後半に周期的な恐慌をもたらした。シティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会(Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London)が開かれたが、ウェストミンスターの意見変更により合併は行われなかった。


19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいのフランスをはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。


ロイズは、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた(ロスチャイルド#ウィーン体制下)。1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。建艦競争がドイツ帝国との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。



金本位制を離脱するまで


1912年、金融スキャンダルが二件あった。一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu & Co.)というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んでインドの銀価格を操作して下げたという、タイムズの連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。もう一つはグリエルモ・マルコーニを優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった(Marconi scandal)。


第一次世界大戦のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。戦後モンタギュー・ノーマンが復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また国際決済銀行の一員として金本位制を支持していた。1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、オースティン・チェンバレン委員長、アーサー・セシル・ピグーやジョン・メイナード・ケインズといった経済学者、元財務大臣(Robert Horne)、レジナルド・マッケナミッドランド銀行(現HSBC)会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連(Federation of British Industries)である[14]。ここまでして金解禁した結果、イギリスは世界恐慌で未曾有の金流出に見舞われた。1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。1933年ソシエテ・ジェネラルのジョージ・ボルトン(George Bolton)がイングランド銀行の理事となった。1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。後二者はすぐ兌換した。これに耐えかねて1933年3月には連邦準備制度も金本位制をやめた。まるで1月にドイツ首相となったヒトラーから逃れるように、フランス銀行から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。


この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打ってブレトンウッズ協定の礎となった。1937年4月、英仏両政府がベルギーのパウル・ファン・ゼーラント首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。



英国病の発見まで


第二次世界大戦中の1940年、シティは火災に遭った(Second Great Fire of London)。ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。N・M・ロスチャイルド&サンズは戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した(Cities of London and Westminster)。戦中のLLC(London County Council)権限拡大が統合の背景をなした。


1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た(Anglo-American loan)。これと引き換えにブロック経済が放棄された。借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていった。ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが[注釈 19]、1968年にド・ゴールの圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの対外債務である。国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。1964 - 65年は国際通貨基金から合計24億ドルを引き出し、また1964年には国際決済銀行と先進諸国から30億ドルの借款を得た。英国病で保護しきれなくなったフォレスタルは1969年に解体された。


このような時代の1960年に、ボルトンはシティをユーロカレンシー取引市場として再興しようと言い出した。交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。ファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。



ロンドン自治区として


シティの就業人口(昼間人口の大部分)は、1961年で39.5万人であったが、1986年28万人へ減少した。家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた[注釈 20]。1961-86年という期間はグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ(Bill Fiske)は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむロンドン自治区が権限を回復すると、ビッグバンがスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー(Stockjobber)が次々と買収されていった。


ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれにカルテルを形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が情報革命という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。1971年ニクソン・ショックがおこり、8年後マーガレット・サッチャーが首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。


1986年10月のビッグバンという規制撤廃もジェントルマンの古い聖域に踏み込んだものであった。しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、利益相反を既成事実化するところは投信と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。


外資の先鋒はクレディ・スイス。同行が1978年にファースト・ボストンと合弁でCSFBをロンドンに設立した。1988年CSFBがファースト・ボストンを合併し、クレディ・スイスの傘下で証券業を担った。1986年UBSがフィリップス・アンド・ドリュー(Phillips & Drew)を傘下におさめた。フィリップスは年金基金など幅広い顧客ベースを抱えていたが、ブラックマンデーで少なからぬ損失をこうむった。1989年10月インドスエズ銀行(旧インドシナ銀行、1974年からスエズ運河会社の子会社)が、ウィリス・フェイバー(現ウィリス・グループ)が保有するモルガン・グレンフェル株20.4%を買収した。これを敵対的買収と受け止めたモルガンは交渉を急ぎドイツ銀行へ身売りした。1992年、キャドバリー報告書が出された。1995年、ベアリングス銀行が破綻しINGグループが買収、さらにドレスナー銀行がクラインワート・ベンソンを買収した。1997年、ダイアナがパリで死に、発足したブレア政権は党の国有化路線を放棄。住民投票で2000年から動いている大ロンドン庁は、シティの権限を奪うというより、外資の散った全ロンドン自治区の利益を代表している。



警察


シティはグレーター・ロンドンのその他の地域を管轄するロンドン警視庁とは別に、独自の警察組織であるロンドン市警察 (City of London Police) を組織している。ロンドン市警察は、スノーヒル、ウッドストリート、ビショップスゲートの3ヶ所に警察署を有し、813人の警察官と85人の特別巡査、および48人の補助警察官が職務にあたっている。管轄区域はシティ・オブ・ロンドン全域のみで、イングランドとウェールズにある警察組織としては、管轄範囲と警察官の人員数の点で、共に最も小さい。


イギリスの大多数の警察官は銀色のバッジを着用するが、市警察のバッジは市の紋章を基調とした黒と金の意匠が施されている。他にも、赤白のチェック柄のキャップバンドや、巡査や巡査部長の制服の上着の袖に着ける赤白のストライプ状の職務用腕章など、イギリスの多くの警察では白黒の配色であるところを、市警察の色である赤白の配色で作られているものがある。市警察の巡査と巡査部長は、徒歩によるパトロールの際、羽飾りのついたカストディアンヘルメットをかぶる。このヘルメットには、イングランドやウェールズの多くの警察用ヘルメットで使用されるブランズウィックスター[15]は付いていない。



消防


シティではセント・ポール大聖堂、オールド・ベイリー(英語版)、マンションハウス、スミスフィールド・マーケット、ギルドホール、その他多くの高層建築を含む、あらゆる建物や場所で火災の危険性がある。しかし、シティ内にはダウゲートにロンドン消防庁の消防車が一台配備されているのみである[16]。そのため、シティは周辺の区にある消防署に依存して、火災発生の際は消火活動等の支援を受けている。統計によれば、シティ内で発生した火災に対応する一台目の消防車は平均で約5分以内に現場へ到着し、要請に応じて派遣される二台目は通報後約5分台後半で到着する。[16]
2006年度にシティで発生した火災案件は1,814件でロンドン32区の中では最小だった。2007年までの4年間は、シティで発生した火災による死者はゼロだった[16]



名所




シティの紋章



歴史的建造物


火災、爆撃、そして第二次世界大戦後のロンドンの再開発はシティにも影響を及ぼしたが、著名な歴史的建造物の多くはこれらの災禍から無傷あるいは軽微な損傷にて免れたため、他の都市に比べて再開発の規模は比較的小さかった。


今日まで残存している建築は、以下の通り。




  • ロンドン大火記念塔(英語版)(モニュメント)

  • セント・ポール大聖堂

  • ギルドホール(英語版)

  • 旧王立取引所(英語版)


  • ジョンソン博士の家(サミュエル・ジョンソンの旧居)

  • マンションハウス

  • シティに点在する教会群多くの教会(英語版)[注釈 21]


また、以下はテンプル地区への激しい爆撃に耐えた著名な建築である。ただし、これらは大規模な改修を受けている。



  • 2キングズ・ベンチ・ウォーク(英語版)


  • ヘンリー王太子の部屋(英語版


ホルボーンのハイウェイ(Holborn Circus)西部にアルバート公子の乗馬像がある。デビアスのチャールズ・オッペンハイムが贈呈した。その他の著名な現代的高層建築や歴史的名所の数々を以下に示す。





  • ロンドン塔[注釈 22]

  • イングランド銀行

  • オールド・ベイリー(英語版)

  • スミスフィールド・マーケット


  • バービカン・エステート(英語版)
    • バービカン・アート・センター


  • セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲート

  • シティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版)

  • シティ・オブ・ロンドン女子学校(英語版)


  • 法曹院[注釈 23]





  • ロンドン・ストーン(英語版)

  • ロンドン城壁(英語版)

  • ロンドン博物館(英語版)

  • ロンドン橋

  • ニューゲート監獄

  • ロンドン波止場

  • セント・バーソロミュー病院

  • セント・バーソロミュー・ザ・グレート教会

  • テンプル・バー(英語版)

  • テンプル・オブ・ミトラス(英語版)

  • テンプル教会






超高層建築物


また、多くの高層建築物や超高層建築物がシティ内に存在し、主に金融ビジネス部門に利用されている。これらのほとんど全てはシティの中でも金融の中心である、スクエア・マイルの東側に集中している。それに比べてシティの北部にはバービカン・エステートの3つの居住用タワーと商業用のシティポイント・タワーが立つ小規模なビル群があるのみである。


シティ・オブ・ロンドン内で最も高い建築物の年表を以下に示す[注釈 24]
















































































名称

最高の高さを誇った期間

高さ(メートル)

高さ(フィート)

階数

ザ・リーデンホール・ビルディング 2014- 225 737 48
ヘロンタワー 2010-2014 202 663 46
タワー42 1980–2010 183 600 47
シティポイント 1967–1980 122 400 35
セント・ポール大聖堂 1710–1962 111 365 n/a
セント・メアリー・ラ・ボウ教会 1683–1710 72 236 n/a
ロンドン大火記念塔 1677–1683 62 202 n/a
サザーク大聖堂 1666-1677 50 163
n/a
旧セント・ポール大聖堂 1310-1666 150 493 n/a
ホワイトタワー 1098-1310 27 90
n/a

現在シティ以内に立地している高さ100m以上の建築物は以下の通り。
















































































































































































順位 名称 竣工 用途 高さ 階数
住所
メートル
フィート
1 リーデンホール・ビルディング ("チーズグレイター") 2014年 オフィス 225 737 48 リーデンホール・ストリート122番地
2 ヘロンタワー 2010年 オフィス 202 663 46 110 ビショップスゲート
3 タワー42 1980年 オフィス 183 600 47 オールド・ブロード・ストリート25番地
4
30セント・メリー・アクス("ガーキン")
2003年 オフィス 180 590 40 セント・メリー・アクス30番地
5 ブロードゲート・タワー 2008年 オフィス 164 538 35 ビショップスゲート201番地
6 20フェンチャーチ・ストリート ("ウォーキー・トーキー") 2014年 オフィス 160 525 37 フェンチャーチ・ストリート20番地
7 シティポイント 1967年 オフィス 127 417 36 ロープメーカー・ストリート
8 ウィリス・ビルディング 2007年 オフィス 125 410 26 ライム・ストリート51番地
=9 クロムウェル・タワー 1973年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
=9 ローダーデール・タワー 1974年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
=9 シェークスピア・タワー 1976年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
12 セント・ヘレンズ ("アビバ・タワー") 1969年 オフィス 118 387 28 セント・メアリー・アクス、アンダーシャフト
13 "ザ・ヘロン"[17]
2013年 居住用 112 367 35 バービカン、ミルトン・コート
14 セント・ポール大聖堂 1710年 教会 111 365 n/a ルドゲート・ヒル
15 99ビショップスゲート 1976年 オフィス 104 340 26 ビショップスゲート99番地
16 ストック・エクスチェンジ・タワー 1970年 (2009年再建) オフィス 100 328 27 オールド・ブロード・ストリート125番地

シティ内で100mを超える建築物または構築物のうち建設中あるいは建設が予定されているものを以下に挙げる。










































名称 高さ 階数 住所 用途
状況
メートル
フィート
ザ・ピナクル ("ヘルター・スケルター") 288 945 63 ビショップスゲート22-24番地 オフィス 建設中
100ビショップスゲート 172 564 40 ビショップスゲート100番地 オフィス 建設地検討中[18]
ヘロン・プラザ 135 443 44 ビショップスゲート128-140番地 ホテル/居住用 建設地検討中[19]


脚注



注釈





  1. ^ 現在、「ロンドン」の名はシティ・オブ・ロンドンに留まらず、より広範な地域を指して用いられており、もとの区域はしばしば単に「シティ」として知られるようになった。この用法は16世紀の記録にまで遡ることができる。その記録には、「シティ(“The City”)は通商と金融のコミュニティの象徴でもある」と記載されている。この前後には、シティが口語的にスクエア・マイルとして知られていたことも著述されている[2]。現代における「ロンドン」は、シティ・オブ・ロンドンと同様にシティ・オブ・ウェストミンスターなど32の区を抱える、おおよそグレーター・ロンドンの範囲に相当する広範囲のコナベーション地域を指す単語となっている。


  2. ^ 約1マイル四方(厳密には1.12 sq mi/2.90 km2


  3. ^ これらの語は金融街としての安定したシティの長い歴史とも相まって、しばしばイギリスの金融業界を指す。


  4. ^ これは英国内でも独特の制度であり、シティの区画境界を越えて権限や所有権を有する事項もあるなど、イギリスの地方自治制度としては一般的でない部分も少なからず含まれる。


  5. ^ シティ・オブ・ロンドンの市長は、任期が1年であり、毎年9月29日のミカエル祭に選挙が行われる。自治都市の伝統から、英国国王がシティー内に立ち入る際には市長の許可を必要とするほどの格式を誇るが、実際は名誉職にすぎない。シティの市庁舎はギルド・ホールと呼ばれる。


  6. ^ 他に、シティから東に4.0 km (2.5 mi)離れたカナリー・ワーフもロンドンの主要な金融地区である。


  7. ^ シティは国際的な原料カルテルの化石である。銅や錫などの国際相場もここで決められる(London Metal Exchange)[8]


  8. ^ リング・オブ・スチールはIRAによる爆撃などテロリストの脅威への対抗策として開発された特に有名な方法である。


  9. ^ 2004年5月にBBCのニュース番組「Panorama」において、2001年の米同時多発テロに匹敵する規模のテロ攻撃に対するイギリスの警察や消防などの緊急時対応機関の準備体制を調査したところ、シティ東部のビショップスゲートで化学薬品による爆破事件が発生するとのシミュレート結果が出された。


  10. ^ コルチェスターやセント・アルバンズ、リンカーンなど


  11. ^ イングランド南部の比較的海に近い川で、幅・深さも海からの船が乗り入れるのに十分であった。国内外の物資輸送に好都合であった。


  12. ^ 12世紀末にヘンリー・フィッツ・エイルウェン(Henry fitz Ailwin)がシティの長となった。


  13. ^ 1348年のペスト流行でシティの人口は1/3に減った。


  14. ^ このとき新設された区は1978年に廃止された。


  15. ^ クリストファー・レンがシティ52教会の再建を指揮した。政府の都市計画は衛生面での実行が不十分であったが、美観を追及した建築規制だけは敷かれた。


  16. ^ いわゆる土地貴族がラッセル・スクウェアやレスター・スクウェアといった、ウェストミンスターを中心とする街区を開発した。


  17. ^ 19世紀初頭にドックが次々と建設され(West India Docks, East India Docks, etc.)、1801年にはロンドン証券取引所がシティ内のカペルコート(Capel Court)に移転した。


  18. ^ 3Wの一人はトーマス・ウィルソン(Thomas Wilson)。後にアーサー・ウェルズリーと姻戚関係となる。他の二人を英名で示す(Timothy Wiggin, George Wildes)。


  19. ^ ただし外国人・外国企業が対象。


  20. ^ シティ内のバービカンでは再開発が進んだ。


  21. ^ その多くはセント・ポール大聖堂の設計でも知られるサー・クリストファー・レンの作


  22. ^ ロンドン塔の位置は正確にはシティ内ではないが、シティの南東部に多くの観光客を呼び込む名所の一つとなっている。


  23. ^ シティ内にあるがリバティと呼ばれる独立した自治体の地位を有する。シティの西部、特にテンプル地区とチャンスリーレーン地区では法曹界が主体となっている。


  24. ^ ホワイトタワーとサザーク大聖堂は厳密にはシティの公式な境界の外にある。




出典





  1. ^ 2011 Census: Ethnic group, local authorities in England and Wales, Office for National Statistics (2012). See Classification of ethnicity in the United Kingdom for the full descriptions used in the 2011 Census.


  2. ^ Mills, AD (2001). Dictionary of London Place Names. Oxford. 


  3. ^ Beckett, J V (2005). City status in the British Isles, 1830–2002. Historical urban studies. Aldershot: Ashgate. p. 12. ISBN 0-7546-5067-7. 


  4. ^ City of London Resident Population Census 2001 (PDF)”. Corporation of London (2005年7月). 2011年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年4月10日閲覧。


  5. ^ “Key facts”. Cityoflondon.gov.uk. 2012年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月30日閲覧。


  6. ^ “Global Financial Centres 7”. Z/Yen (2010年). 2010年4月21日閲覧。


  7. ^ Dunton, Larkin (1896). The World and Its People. Silver, Burdett. p. 24. 


  8. ^ 地理用語研究会 編(2004):157ページ


  9. ^ “Research and statistics FAQ”. The City of London. 2011年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月23日閲覧。


  10. ^ 14世紀後半から15世紀初頭にかけてはリチャード・ウィッティントン(Richard Whittington)がしばしば長となったが、なんとカレーのそれも兼ねることがあった。


  11. ^ David Kynaston, City of London: The History, Random House, 2011, p.3.


  12. ^ Murray Newton Rothbard, An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, vol.1, "Economic Thought Before Adam Smith", Ludwig von Mises Institute, 2006, p.227.


  13. ^ ウィキペディア・コモンズにグラフがある。右上の検索欄に斜体字をコピーアンドペーストすれば飛べる。File:Population of the City of London over time.png


  14. ^ Nahid Aslanbeigui, Guy Oakes, Arthur Cecil Pigou, Springer, 2015, p.120.


  15. ^ 一つの使用例として、ロンドン警視庁の旗が挙げられる。

  16. ^ abc“London Fire Brigade - City of London Profile”. London-fire.gov.uk. 2007年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月30日閲覧。


  17. ^ Skyscrapernews.com Milton Court


  18. ^ Leytonstonia Great Portland Estates aims for 100 Bishopsgate construction start in 2011


  19. ^ Skyscrapernews.com City of London Approves Heron Plaza




参考文献


  • 地理用語研究会 編『地理用語集』山川出版社、2004年3月30日、337pp. ISBN 4-634-05790-5


外部リンク







公式サイト




  • Corporation of London, シティの行政機関

  • Museum of London


  • Visit the City, シティの観光案内





その他



  • CityMayors.com profile of Corporation

  • London, VisitTown.com





地図




  • Ward boundaries map, Corporation of London

  • Street map









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