大相撲












大相撲(おおずもう)は、






  1. 日本相撲協会が主催する相撲興行。

  2. がっぷりと四つに組んだ力士同士の力が拮抗する取組。取り組みがおおよそ4分を超えると「水入り」になる場合がある。


公益財団法人日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、日本国内外における相撲興行のなかで最も有名な競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館、国技#日本の国技を参照)。
土俵に立つものおよび出場できるものは男性に限られる(見た目が男性であるゲイやトランスジェンダー、あるいは半陰陽に関する規定は無い)。





相撲絵(歌川国貞、1860年代)




相撲競技場全体図




大相撲の力士を応援する幟




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 江戸時代


    • 1.2 明治・大正


    • 1.3 昭和戦前から戦後初期


    • 1.4 昭和戦後


    • 1.5 平成




  • 2 興行


    • 2.1 本場所


    • 2.2 地方巡業


    • 2.3 花相撲


    • 2.4 海外公演


    • 2.5 海外巡業




  • 3 横綱


  • 4 番付


    • 4.1 昇進と降格




  • 5 取組


  • 6 優勝制度


    • 6.1 優勝制度の不公平




  • 7 力士の条件と待遇


    • 7.1 力士の条件


    • 7.2 力士の報酬


      • 7.2.1 給与


      • 7.2.2 賞与


      • 7.2.3 本場所特別手当


      • 7.2.4 出張手当


      • 7.2.5 力士補助金


      • 7.2.6 力士褒賞金




    • 7.3 力士養成員の報酬


    • 7.4 副業の制約など


    • 7.5 懸賞金


    • 7.6 力士の退職金


      • 7.6.1 養老金


      • 7.6.2 勤続加算金


      • 7.6.3 特別功労金




    • 7.7 力士の待遇


      • 7.7.1 待遇の歴史




    • 7.8 退職




  • 8 伝統とそれによる問題点


    • 8.1 閉鎖性


    • 8.2 出身地による参加機会の不均等


    • 8.3 女人禁制


    • 8.4 志願者の減少と意識の変容


    • 8.5 その他




  • 9 他国からの表彰


  • 10 大相撲を主題とした作品


    • 10.1 テレビゲーム


    • 10.2 モバイルゲーム


    • 10.3 落語


    • 10.4 雑誌


      • 10.4.1 現在刊行中


      • 10.4.2 かつて刊行していた雑誌




    • 10.5 小説


    • 10.6 漫画作品


    • 10.7 映画作品


    • 10.8 テレビドラマ


    • 10.9 その他




  • 11 大相撲ファンの著名人


  • 12 脚注


    • 12.1 注釈


    • 12.2 出典




  • 13 関連書


  • 14 関連項目


  • 15 外部リンク





歴史




天正六年(1578年)、織田信長が安土城にて相撲を観戦。 両国国技館の「織田信長公相撲観覧之図」






現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。




大小の刀を佩刀し武士と同じ待遇であった力士[1]



江戸時代


興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。これは寺社が建立や移築のための資金を集める興行として行うものであり、これを「勧進相撲」といった。1624年、四谷塩町長禅寺(笹寺)において明石志賀之助が行ったのが最初である。しかし勝敗をめぐり喧嘩が絶えず、浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年から幕府によってたびたび禁止令が出されていた[2]


ところが、1657年の明暦の大火により多数の寺社再建が急務となり、またあぶれた相撲人が生業が立たず争い事が収まらなかったため、1684年、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。最初の興行は前々年に焼失し復興を急いでいた江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。その後興行は江戸市中の神社(富岡や本所江島杉山神社、蔵前八幡、芝神明社など)で不定期に興行していたが、1744年から季節毎に年4度行われるようになった。この頃には勧進の意味は薄れて相撲渡世が濃くなり、1733年から花火大会が催されるなど江戸の盛り場として賑わいを見せていた両国橋左岸の本所回向院で1768年に最初の大規模な興行が行われた。ここでの開催が定着したのは1833年のことである[3]


『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5間)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13尺)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。


江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。


しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[4]。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。


各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。


1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。


幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。


1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大坂相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。



明治・大正




明治中頃




訪米中の常陸山


明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。


東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。


この頃から映像が映され出し、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。


20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。


1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。


1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制導入などの制度や規則が導入されて相撲の近代スポーツ化がすすめられた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。


1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴から烏帽子、直垂となった。


1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。


興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。東京相撲では、1923年に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。大阪相撲においても同年龍神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった[5]


1925年、皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。



昭和戦前から戦後初期


1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。


この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために[6]、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。


1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。


1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。


69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。


第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(後の明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。


戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。



昭和戦後


1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。


1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)が各15日間行われた(ただし1952年は大阪場所が開かれず、3場所とも東京で開催)。このうち大阪は、1950年9月場所は阿倍野橋畔に、1951年9月場所は難波(現在の大阪府立体育会館所在地)にそれぞれ仮設国技館を建て興行を行った。1952年に難波の仮設国技館を建替え、鉄骨製の大阪府立体育館(1987年から大阪府立体育会館)が竣工。翌1953年3月場所の会場となった。以後3月場所は大阪開催となり、現在に至る。


横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。


栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。


国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。[7]横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1967年には前頭・十両の枚数削減も実施した。1968年には役員選挙の制度を改定、1969年には勝負判定にビデオ映像の使用を開始した。


1971年に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。


1972年1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。


1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。


1985年1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。



平成





相撲、立合い(2010年)




土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)


平成初期に千代の富士貢以下横綱が相次いで引退し一時的に横綱が不在になる。この時期は大型のハワイ出身力士が台頭し、6代小錦八十吉が横綱昇進目前まで行く。その後、曙太郎、武蔵丸光洋がそれぞれ横綱昇進、優勝回数を二ケタに乗せる。また、二子山部屋が師匠貴ノ花健士の息子である若乃花勝・貴乃花光司を中心に多くの関取を輩出した。若乃花・貴乃花は特に女性ファンの獲得に成功し、若貴ブームと呼ばれた。1993年頃から2000年頃にかけては、この4横綱がしのぎを削った。貴乃花は優勝22回に達し、一代年寄の資格を得た。


2000年代半ばになると二子山部屋の勢いは衰え、ハワイ出身力士は姿を消す。入れ替わって朝青龍明徳以下、スピード重視のモンゴル出身力士が登場する。朝青龍は2005年に史上初の年間全場所制覇を達成、次いで横綱になった白鵬翔は2010年に63連勝、2015年に優勝回数記録を更新するなど、ともに一時代を築いた。次いで日馬富士公平、鶴竜力三郎が横綱に昇進するなど、モンゴル出身力士が圧倒的に優位な時代が続いている。同時期にヨーロッパ出身力士も登場し、ブルガリア出身の琴欧洲勝紀とエストニア出身の把瑠都凱斗が大関にまで上った。日本人力士の中では稀勢の里寛が横綱に昇進している。


2000年後半から不祥事が相次ぎ、2008年には力士による大麻取締法違反事件の責任を取る形で理事長が辞任、2010年には野球賭博問題、2011年には八百長問題が発覚してそれぞれ本場所に影響を及ぼした。一旦は収束したかに見えたが、2017年以降、巡業中に横綱による力士への酒席での暴行など部屋内外での暴力行為の続出、立行司によるセクシャルハラスメント行為の発覚、十両力士による道路交通法違反(無免許運転)行為等、当事者の進退に直結する不祥事が続出。さらに地方巡業中に挨拶に立った政治家が土俵上で倒れた際に救護に駆け付けた女性看護師に対し、土俵から降りるよう行司により複数回アナウンスされる[8][9][10][11]など、巡業における救命体制や「女人禁制」との問題点が日本国内はもとより海外にも記事が配信され、国際的に批判を浴びている[12]


2014年1月30日、公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける[13]





興行


大相撲の興行としては、本場所と巡業が大きなウェイトを占める。



本場所



本場所は協会主催で定期的かつ公式な興行で、技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある。1958年以降は隔月で年間6場所行われている。開催場所は2018年現在のもので、呼称は日本相撲協会の表記に準ずる(メディア等により表記が異なる場合がある。本場所#概要を参照)。













































開催月 正式名称 通称 開催場所
1月 一月場所 初場所
両国国技館
3月 三月場所 春場所
エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育会館)
5月 五月場所 夏場所 両国国技館
7月 七月場所 名古屋場所
ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)
9月 九月場所 秋場所 両国国技館
11月 十一月場所 九州場所
福岡国際センター



地方巡業


本場所のない時期には、力士一行が本場所が行われていない地方へ出向き、1日限りの相撲披露を行う。これを巡業という。かつては各部屋や一門別に巡業を行っていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。


地方巡業は、各地の興行の希望者(「勧進元」)が協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形で長年行われてきた(売り興行)。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。


地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。



花相撲








海外公演


海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。



















































































































回数 開催年月 名 称 都 市 備 考
第1回 1965年7月-8月
ソビエト連邦の旗ソ連公演

モスクワ、ハバロフスク
日ソ復交調印10周年記念
第2回 1973年4月
中華人民共和国の旗中国公演

北京、上海

日中国交正常化記念
第3回 1981年6月
メキシコの旗メキシコ公演
メキシコシティ
第4回 1985年6月
アメリカ合衆国の旗アメリカ公演
ニューヨーク 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念
第5回 1986年10月
フランスの旗 パリ公演
パリ 東京パリ友好都市提携5周年記念
第6回 1990年6月
ブラジルの旗ブラジル公演
サンパウロ
第7回 1991年10月
イギリスの旗 ロンドン公演
ロンドン
ロンドン日本協会設立100周年記念
第8回 1995年10月
オーストリアの旗フランスの旗 ヨーロッパ公演

ウィーン、パリ

第9回 1997年6月
オーストラリアの旗オーストラリア公演

メルボルン、シドニー
日豪外交100周年記念
第10回 1998年6月
カナダの旗カナダ公演
バンクーバー
第11回 2004年2月
大韓民国の旗韓国公演

ソウル、釜山
日韓共同未来プロジェクト
第12回 2004年6月
中華人民共和国の旗中国公演
北京、上海 日中定期航空路線開設30周年記念
第13回 2005年10月
アメリカ合衆国の旗 ラスベガス公演
ラスベガス ラスベガス市制100周年記念
第14回 2009年10月(中止)
イギリスの旗 ロンドン公演
ロンドン 世界的な不況により中止
第15回 2013年6月(延期)
ロシアの旗 モスクワ公演
モスクワ


海外巡業


協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。


国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟の委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、高見山大五郎もここでスカウトされた。


























































































































回数 開催年月 名称 都市 備考
第1回 1962年6月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル
第2回 1964年2月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業
ホノルル、ロサンゼルス

角界拳銃密輸事件が起こる
第3回 1966年
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル
第4回 1970年6月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル
第5回 1972年2月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル
第6回 1974年6月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル
第7回 1976年6月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業
ホノルル、ロサンゼルス
第8回 1981年6月
アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業

サンノゼ、ロサンゼルス

第9回 1992年6月
スペインの旗 スペイン、ドイツの旗 ドイツ巡業

マドリード、デュッセルドルフ

第10回 1993年2月
香港の旗 香港巡業
香港
第11回 1993年6月
アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業
ホノルル、サンノゼ
第12回 2006年8月
台湾の旗 台湾巡業
台北 13年ぶりに海外巡業が復活
第13回 2007年6月
アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業
ホノルル 14年ぶりのハワイ巡業
第14回 2008年6月
アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス巡業
ロサンゼルス
第15回 2008年8月
モンゴル国の旗 モンゴル巡業
ウランバートル
第16回 2013年8月
インドネシアの旗 ジャカルタ巡業
ジャカルタ


横綱


横綱(よこづな)は、大相撲の力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。


現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、神の依り代であることの証とされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。


横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。








































現役横綱[14]

代位

四股名 生年(年齢)
初土俵
横綱昇進

優勝

所属
出身
69代

Hakuho in Sumiyoshi Taisha IMG 1503-2 20130302-edited.jpg

はくほう しょう
白鵬翔

(1985-03-11) 1985年3月11日(33歳)

2001年03月
2007年7月
41回

宮城野部屋

モンゴル
71代

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かくりゅう りきさぶろう
鶴竜力三郎

(1985-08-10) 1985年8月10日(33歳)
2001年11月
2014年5月

05回

井筒部屋
モンゴル


番付


大相撲内での力士の地位は「番付」と呼ばれる順位表で表される。


大相撲は幕内を最上位に、以下十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口 と続く6つの階層から成りたつ。その中で最上位の幕内も上位から横綱・大関・関脇・小結・前頭の5つに分けられている。各力士は一場所ごとに自分が所属する階層内で決められた数の取り組みを行い、その成績によって各階層内での順位付けや各階層間の昇進や降格が行われ、それら全ての順位を一場所ごとに表した物を番付と呼ぶ。


番付とは別に、幕内と十両の上位2階層は関取と呼ばれ下位の4階層と区別される場合が多く、幕内の大関・関脇・小結は三役と呼ばれ、前頭は「平幕」と呼ぶ場合が多い。



昇進と降格


番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。


ただし、同じ地位で同じ成績をあげても運不運が生じる場合がある。これは他の力士の成績との兼ね合いや各階層の定員が決められている事から来る物である。


それとは別に三役や横綱への昇進のかかるケースで不公平感が問題視されることがある。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたり都度昇進条件が検討されることとなっている[15]。その昇進の基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、物議を醸し問題となる場合が多い。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[16]



取組



本場所の取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。関取は15日間すべて、取的は2日に1番の割合で7番とる。取組の進行は9:00頃から前相撲を開始、大相撲中継にあわせて、結びの一番と弓取式が18:00直前に終了するように時間調整が行われている(千秋楽は表彰式のため30分繰り上げ)。


本割では、同部屋の力士および4親等以内の親族同士の取組は組まれない。



優勝制度


幕内最高優勝は1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、勝ち越し点(勝ち-負け)で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。



優勝制度の不公平


同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり[17]、過去に横綱・大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や、十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議を醸した例がある。そのため、現在では幕内下位で優勝争いの先頭または2番手につけている力士を、終盤に横綱・大関と対戦させることで、優勝の価値の公平化を図っている。


所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。近年の例では、二子山部屋や武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中していた、1990年代後半から2000年代初頭に、個人別総当たり制の導入が話題になったことがあった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。



力士の条件と待遇



力士の条件


義務教育を修了した、身長167cm以上、体重67kg以上の新弟子検査実施日時点で23歳未満の男子である。ただし、中学卒業見込みの者で3月場所に新弟子検査を受ける者に限り、身長が165cm以上、体重が65kg以上となる。また、学生・アマチュア相撲で優秀な成績を残した者は体格は不問となり、年齢上限も25歳未満となる。国籍は不問だが、「外国出身力士は各部屋1人ずつ」という規定が存在する。




力士の報酬


大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。


(2017年1月現在、単位:円)











































































項目 横綱 大関 三役(関脇・小結) 平幕(前頭) 十両
月額給与 2,820,000 2,347,000 1,690,000 1,309,000 1,036,000
年額給与 33,840,000 28,164,000 20,280,000 15,708,000 12,432,000
年額賞与 5,640,000 4,694,000 3,380,000 2,618,000 2,072,000
特別手当 1,200,000 900,000 300,000
出張手当 1,155,000 997,000 850,000 745,000 682,000
力士補助金 75,000 75,000 75,000 75,000 75,000
力士褒賞金 600,000 400,000 240,000 240,000 160,000
年額報酬 45,510,000 37,230,000 26,325,000 20,586,000 16,221,000

  • 力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。


給与


十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。そのため、11月場所において十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。幕下陥落が確実になり引退の意思を固めた力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、翌場所の番付に名を残すケースも多い。


給与額は原則として年1回、理事会において見直すこととなっているが、平成13年に現行の金額となってからは、平成29年まで16年連続据え置きとなっている。



  • 横綱:2,820,000円

  • 大関:2,347,000円

  • 三役:1,693,000円

  • 平幕:1,309,000円

  • 十両:1,036,000円



賞与


賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。



本場所特別手当


本場所特別手当は、小結以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日~10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。



  • 横綱:200,000円

  • 大関:150,000円

  • 関脇・小結:50,000円



出張手当


出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分[注 1]支給される。



  • 横綱:宿泊費8,000円、日当3,000円

  • 大関:宿泊費7,500円、日当2,000円

  • 関脇・小結:宿泊費6,500円、日当1,600円

  • 平幕:宿泊費5,700円、日当1,400円

  • 十両:宿泊費5,300円、日当1,200円



力士補助金


力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。


  • 横綱から十枚目(十両)まで:一律25,000円


力士褒賞金


場所ごとに過去に残した成績に応じて支給される。計算の基礎となる持ち給金(支給標準額)の累積は序ノ口から始まり、持ち給金を4000倍した金額が十両以上の力士に支給される。持ち給金は勝ち越し1点につき50銭ずつ累積され、負け越しや休場などでの減額はない。金星や幕内最高優勝では大きな加算があるほか、十両・幕内・大関・横綱と持ち給金の最低額が決まっており、昇進時に累積額がその金額に満たなければ番付に応じた最低額まで引き上げられる。




力士養成員の報酬


幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。



  • 幕下:150,000円

  • 三段目:100,000円

  • 序二段:80,000円

  • 序ノ口:70,000円


(2006年1月現在、単位:円)
























項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
場所手当 150,000 100,000 80,000 70,000
年額報酬 900,000 600,000 480,000 420,000

また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。
(2006年1月現在、単位:円)
























項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
勝星奨励金 2,500 2,000 1,500 1,500
勝越金 6,000 4,500 3,500 3,500

このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。


力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。



副業の制約など


大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、本場所の協会指定懸賞企業および巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(後のパナソニック)乾電池の小錦、日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金の貴乃花、若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。



懸賞金


取組によっては企業が懸賞金を提供するケースがあり、勝利した力士に授与される。企業から提供される懸賞金は2014年5月以降は1本につき62,000円となっているが、納税充当金として26,700円、協会の事務経費として5,300円が天引きされ、力士の手取りは懸賞金1本当たり3万円となる。




力士の退職金




十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。



養老金


(2006年1月現在、単位:円)



























横綱 大関 三役 平幕 十両
資格者 15,000,000 10,000,000 7,630,000 7,630,000 4,750,000
非資格者 -- -- 7,630,000 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000


勤続加算金


番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。


(2006年1月現在、単位:円)



















































横綱 大関 三役 平幕 十両
横綱 500,000 400,000 250,000 200,000 150,000
大関 -- 400,000 250,000 200,000 150,000
三役 -- -- 250,000 200,000 (150,000) 150,000
平幕 -- -- -- 200,000 (150,000) 150,000
十両 -- -- -- -- 150,000


特別功労金


横綱・大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。


かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。



力士の待遇


力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。






























































地位 幕内(横綱 - 前頭) 十両 幕下 三段目 序二段 序ノ口


大銀杏

丁髷
(十両との対戦時および弓取式、巡業中の初切出演、床山の練習台、引退時の断髪式の際は大銀杏容認)

紋付羽織袴
着物・羽織(外套・襟巻も着用可)
着物・羽織
着物(浴衣もしくはウール)


博多帯

ベンベルグ
履物
足袋に雪駄
足袋に雪駄(エナメル製)
素足に雪駄(エナメル製)
素足に下駄
稽古廻し
白色・木綿
黒色・木綿
取り廻し

博多織繻子
黒色・木綿
下がり
取り廻しの共布

足袋の色



控えの敷物
私物の座布団(色は自由)
共用の座布団(紫)
畳に直座(幕下上位五番は十両と同じ座布団)

このほかにも以下のような違いがある。


大関以上の力士

  • 国技館の駐車場に直接乗り入れることができる。

三役以上の力士

  • 初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。

幕内以上の力士


  • 横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる。(ただし、出世が早いなどの理由で大銀杏が結えない力士は務められない)

  • 夏場(5月場所から9月場所)は染め抜き着物を着用することができる。


十両以上の力士


  • 一人前の力士の敬称である「関取」「**関」と呼ばれる。力士会に参加できる。

  • 幕下以下の力士が付け人として付く(地位が上がるほど人数も増える)。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。

  • 相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される(幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする)。

  • 起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す(幕下以下の力士より遅い時間に稽古場に現れることが多い)。

  • 巡業・本場所などの興行で自分の名前が入った幟を立てることができる(一般に後援会から寄贈される事が多い)。

  • 化粧回しを締めて土俵入りを行う(十両と幕内は別に行われる)。

  • 支度部屋に明荷を持ち込むことができる(横綱は3個、横綱以外は1個)。

  • 取組では、力水、力紙、塩を使用する(幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある)。

  • 優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。


なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、初っ切り、床山の練習台、断髪式の時は大銀杏が結える。

  • 個人のサインを書くことが協会から許される(十両経験者であっても現在の番付が幕下以下の場合は不可)。[18]


待遇の歴史


歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の先祖)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。


三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。


本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため 事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。


明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。


1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声がある。個人事業主として活動する多くの他のプロスポーツ選手と、給与所得者として活動する力士との間では労働条件を異にする部分があるため一律には比較できないものの、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に安い。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。[19][20]この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されたことを最後に平成29年(2014年年分は2013年11月場所8日目理事会で決定)まで16年連続で給料据え置きとなっている。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、概して昨今の協会は財政状況が潤沢でない[21]。ただし2015年の冬季ボーナスは「もし俺に何かあったら、(給料の底上げを)頼むぞ”」と北の湖が協会関係者に伝えていたことなどが影響し、2014年と比べて3割ほどアップしたという[22]


一方で、税金対策や引退時の退職金制度等の表面に表れにくい部分では、他のプロスポーツより充実しているという見方もある。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける診療所があること、健康保険組合を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること、また税金面においては給与所得や退職所得が適用されることにより、自身の報酬を事業所得として申告する他のプロスポーツ選手には無い手厚い控除が受けられること等である。1969年3月11日には国税庁が力士等に対する課税について個別通達を行っており、これに従うことで後援会から受け取る祝儀などを含めて力士が得る有形無形の収入について適切な形で租税計算を行うことが可能となっている。[23][注 2]収入の無い幕下以下の力士であっても社会保険に加入することが可能であり、この場合は全額協会保証となる。[24]福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。


金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。



退職


力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰が衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。




















区分 改称前 改称後
力士
廃業 引退
引退
年寄
廃業 退職
停年、退職

満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。なお、2014年11月16日からは停年になった年寄の再雇用制度が発足しており、この制度の適用を受けた年寄は給与が停年前より低くなり、部屋を持つことができないなどの制約はあるものの70歳までは日本相撲協会に残ることができる。



伝統とそれによる問題点



閉鎖性


横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。


またその閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行している状況であり、下位力士を竹刀で叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が芝田山親方(大乃国康)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となり、2012年12月に両者の間で和解が成立した。


また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。



出身地による参加機会の不均等


理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。また年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者ももう珍しくはないが、元高見山の12代東関や元武蔵丸の当代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる一方、元朝青龍や元把瑠都のように横綱大関まで登り詰めながら引退時に帰化しておらず、その特権を利用できずに退職を選択する力士も現れている。



女人禁制


日本相撲協会主催の大相撲は土俵上への女性の立ち入りを認めていない。




  • 2000年に大阪府知事に就任した日本初の女性都道府県知事である太田房江は春場所の優勝力士に大阪府知事賞を直接授与することを日本相撲協会側に要求したが、認められなかった。


  • 2007年9月19日(秋場所11日目)には観客の40歳前後の女性が土俵に乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツは「約1400年の大相撲の歴史で初めて女人禁制が破られた」としている[25]。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている[26]

  • 2018年4月4日、巡業先の舞鶴市で多々見良三市長が土俵上であいさつ中に倒れ、救命のため医療従事者の女性が土俵に上がったが、相撲協会はこの女性に対して土俵を降りるよう場内アナウンスで促した[27]。これについて八角理事長は「人命にかかわる状況には不適切な対応でした」と謝罪している[28]


この女人禁制の風習は明治期の「違式註違条例」発令と「神道の穢れ感」を利用し「虚構の伝統」が創られたとされる[29]。日本の相撲の歴史においては、室町時代から女相撲も存在した[29]


1957年には四国巡業において女相撲の大関若緑の引退セレモニーが行われ、この際、若緑は大相撲の土俵に上がっている[30][31]



志願者の減少と意識の変容


近年の日本では力士になりたいと思う少年の数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査での受検者数はゼロであった。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。



その他


相撲茶屋問題


本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。


観客席での喫煙

大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。


座布団投げ

金星などの番狂わせがあったとき、観客が座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。



他国からの表彰


1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。


「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。



大相撲を主題とした作品



テレビゲーム



  • 大相撲(データイースト、1984年)


  • 出世大相撲(テクノスジャパン(後のミリオン(著作権保有)、アークシステムワークス(発売))、1984年)


  • つっぱり大相撲(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1987年)


  • 寺尾のどすこい大相撲(ジャレコ、1989年)

  • SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所(バンプレスト(後のバンダイナムコゲームス)、1990年)

  • 千代の富士の大銀杏(FACE、1990年)

  • スーパー大相撲熱戦大一番(ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)、1992年)

  • 大相撲魂(タカラ(後のタカラトミー)、1992年)

  • つっぱり大相撲 立身出世編(テクモ(後のコーエーテクモゲームス)、1993年)

  • 若貴大相撲 夢の兄弟対決(イマジニア、1993年)

  • 横綱物語(KSS(後のソフトガレージ)、1994年)

  • 64大相撲(ボトムアップ、1997年)

  • 64大相撲2(ボトムアップ、1998年)

  • 日本相撲協會公認 日本大相撲(コナミ、2000年)

  • 日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編(コナミ、2001年)

  • 日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編(コナミ、2002年)



モバイルゲーム



  • みんなで大相撲(Japan Internet Technologies、2011年)

  • 大相撲カード決戦(HINATA、2013年)

  • 大相撲ごっつぁんバトル(HINATA開発、バンダイナムコエンターテインメント配信、2017年)



落語



  • 花筏

  • 阿武松

  • 大安売り

  • 佐ノ山



雑誌



現在刊行中




  • 相撲(ベースボール・マガジン社) - 日本相撲協会機関誌扱い。


  • NHK G-Media 大相撲中継(毎日新聞出版)

  • スポーツ報知 大相撲ジャーナル(報知新聞社)



かつて刊行していた雑誌




  • 大相撲(読売新聞社) - 2010年9月号をもって休刊。

  • VANVAN相撲界(ベースボール・マガジン社) - 1998年終刊。

  • 別冊グラフNHK大相撲特集号→NHK大相撲中継(NHKサービスセンター)


  • NHK G-Media 大相撲ジャーナル(イースト・プレス)



小説



  • どすこい。(京極夏彦)


  • 大相撲殺人事件(小森健太朗)



漫画作品




  • ああ播磨灘(さだやす圭)


  • 両国花錦闘士(岡野玲子)


  • のたり松太郎(ちばてつや)


  • おかみさん(一丸)


  • やぐら嵐(ビッグ錠)


  • やぐら太鼓の詩(琴剣)


  • ちゃんこ屋虎太郎(琴剣)


  • はっけよい(前川たけし)


  • 巴戦、待ったなし(岸本景子)


  • おっとと、お相撲くん(コンタロウ)


  • どす恋ジゴロ(平松伸二)


  • 嗚呼どす恋ジゴロ(平松伸二)


  • よりきり君(平ひさし)


  • 大相撲刑事(ガチョン太朗)


  • 力人伝説 -鬼を継ぐもの-(原作:宮崎まさる、作画:小畑健)


  • ももたろう(小山ゆう)


  • バチバチ(佐藤タカヒロ)


    • バチバチBurst(佐藤タカヒロ)


    • 鮫島、最後の十五日(佐藤タカヒロ)




  • 達磨(木村えいじ)


  • 火ノ丸相撲(川田)


  • りきじょ(歌麿)


  • ガチンコッ!(山下てつお)


  • どすこーい!勝五郎(柴山みのる)



映画作品




  • 名寄岩 涙の敢闘賞(小杉勇監督、1956年)


  • 若ノ花物語 土俵の鬼(森永健次郎監督、1956年)



テレビドラマ




  • 千代の富士物語(関西テレビ、1991年)


  • まったナシ!(日本テレビ、1992年)


  • ひらり(NHK、1992年)


  • おかみさんドスコイ!!(毎日放送、2002年)



その他


  • 「鬼無双シリーズ」「世界最強の国技 SUMOU」
    • 相撲の映像にロボットアニメや対戦格闘ゲームのような派手なエフェクトを入れたMADムービーで、単に「SUMOU」と呼ばれることもある。ニコニコ動画で再生数の多い人気動画のひとつであり、2015年に開催されたニコニコ超会議では、相撲協会協力の下現役の力士がリアルタイムでMADムービーを再現する「リアルSUMOU」が開催され[32]、同年のACC CM FESTIVALではインタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞した[33]。2017年の超会議でも同様のイベントが開催される予定。



大相撲ファンの著名人



  • 好角家を参照


脚注



注釈





  1. ^ 番付発表日から本場所初日前日までの13日間、本場所15日間、本場所千秋楽翌日から本場所千秋楽の翌日曜日までの7日間(この間は休みとなり、休み明けから巡業が始まる)の合計。


  2. ^ また、幕内力士の場合は納税対策として懸賞金の一部(2014年5月以降は26,700円)が納税充当金として天引きされ、力士本人の名義で協会がプールし、納税額に不足が生じた時はここから充当されるようになっている。




出典


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  1. ^ 歌川国貞画:大判錦絵:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)


  2. ^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p103


  3. ^ 「大相撲の歴史と深川(4)」 (PDF) 深川江戸資料館 資料館ノート106号、2014年11月16日発行、2016年1月5日閲覧。


  4. ^ 「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって


  5. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p40


  6. ^ 大相撲- NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス


  7. ^ リー・トンプソン著、中久郎編『スポーツの近代化から見た相撲』91頁 現代社会学の諸理論 世界思想社(1990年)


  8. ^ 大相撲舞鶴場所、舞鶴市長倒れ、救命女性に「女性は土俵から降りて下さい」とアナウンス


  9. ^ 救命女性に「土俵から下りて」 大相撲巡業、市長倒れ


  10. ^ 若手行司が女人禁制の指摘に慌て土俵降下アナウンス


  11. ^ 市長の応急処置で土俵上がった女性に「下りて」


  12. ^ 女性土俵問題、米でも報道 「日本の差別反映」と批判 - 産経ニュース 2018年4月6日


  13. ^ 新相撲協会スタート 北の湖理事長「公益法人の責務果たす」Sponichi Annex 2014年1月30日 18:50


  14. ^ 日本相撲協会 力士情報成績


  15. ^ 条件は「13勝以上の優勝」=稀勢の里の綱とり-大相撲横審|2013/11/25-19:41|時事ドットコム


  16. ^ 稀勢綱取りに外国人力士猛反発|2013年07月08日 16時00分|東スポWeb


  17. ^ 幕内は、白鵬ら上位総当たりとそれ以外とで相撲の質が異なる。歪な構造が生み出す、大相撲の魅力|2013年10月07日|Sportsnavi


  18. ^ 佐渡ケ嶽部屋 行事/予定


  19. ^ 『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分


  20. ^ KONISHIKI、相撲界の驚くべき金銭事情を明かす Sports Watch 2013年01月25日11時30分


  21. ^ 『相撲』2013年12月号57頁


  22. ^ 週刊女性2017年8月1日号


  23. ^ 力士等に対する課税について 国税庁


  24. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則 第85条


  25. ^ 女性乱入ハプニング/過去の女人禁制問題 - 日刊スポーツ、2018年4月5日


  26. ^ 大相撲 土俵に女性乱入で伝統は崩壊か? - AFPBB、2007年9月20日


  27. ^ 救命女性に「土俵から降りて」 大相撲巡業、市長倒れ」京都新聞 2018年04月04日 19時59分


  28. ^ 八角理事長が謝罪 倒れた舞鶴市長へ救命措置の女性に土俵から降りるようアナウンス - スポーツ報知 2018年4月5日0時2分

  29. ^ ab吉崎祥司、稲野一彦、相撲における「女人禁制の伝統」について 北海道教育大学紀要 2008年8月 第59巻 第1号 人文科学・社会科学編, ISSN 1344-2562


  30. ^ 約60年前に土俵に上がった“女大関”の息子が巡業騒動に言及…「バンキシャ!」が特集 - 2018年4月8日19時8分 スポーツ報知


  31. ^ 遠藤泰夫『女大関 若緑』朝日新聞社、2004年。ISBN 978-4021000843


  32. ^ RIKISHIが真の力を解放「ニコニコ超会議」大相撲超会議場所が大盛況 マイナビニュース 2015年4月26日


  33. ^ ニコニコ超会議2015「リアルSUMOU」55th ACC CM FESTIVAL・インタラクティブ部門で”ACCゴールド”を受賞 株式会社ドワンゴ 2015年10月28日




関連書


  • 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。


関連項目







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外部リンク







  • 日本相撲協会公式サイト

  • 日本相撲史概略


  • 大相撲 記録の玉手箱(2009年2月20日時点のアーカイブ)


  • 江戸時代のお相撲さん - 開設者の先祖が「真力鉄蔵」という江戸時代の力士らしい。(2008年1月20日時点のアーカイブ)


  • スポーツ文化情報館(2012年2月22日時点のアーカイブ)


  • 「日本社会における相撲の変容」―文化史としての日本相撲史―(2010年2月5日時点のアーカイブ)

  • 社会的構築物としての相撲―報恩古式大相撲の事例を巡って

  • 大相撲 - スポナビライブ






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