李嗣源
明宗 李嗣源 | |
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後唐 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後唐 |
在位期間 | 926年6月3日 - 933年12月15日 |
都城 | 開封 |
姓・諱 | 邈佶烈→李嗣源→李亶 |
諡号 | 聖徳和武欽孝皇帝 |
廟号 | 明宗 |
生年 | 咸通8年9月9日 (867年10月10日) |
没年 | 長興4年11月26日 (933年12月15日) |
父 | 李霓 |
母 | 劉氏 |
后妃 | 和武憲皇后曹氏 |
陵墓 | 徽陵 |
年号 | 天成 : 926年 - 930年 長興 : 930年 - 933年 |
李 嗣源(り しげん)は、五代後唐の第2代皇帝。
目次
1 生涯
1.1 出生
1.2 即位
2 宗室
2.1 后妃
2.2 男子
2.3 女子
2.4 甥
3 脚注
生涯
出生
出自ははっきりしないが少なくとも漢民族ではなく、いわゆる「雑胡」で、父は代州にいた遊牧民族の一首長・李霓(李電)[1]。若いころから武勇に優れて信望厚く、李克用の仮子(養子分)となる。民間伝承や小説『残唐五代史演義』の中では、配下の「十三太保」の1人として描かれた。当時の軍閥では有望な部下を義子として処遇することが広く行われており、嗣源もまたそのような一人であった。
契丹討伐や後梁討滅などにおいて活躍し、頭角をあらわした。やがて、李克用の長男・荘宗(李存勗)が酒に溺れて次第に政治を顧みなくなり、各地で反乱が勃発すると、その鎮圧に向かうように命じられたが、配下の軍に推されて荘宗を弑逆し、さらに反撃した荘宗の太子で魏王の李継岌の軍勢を渭水でこれを滅ぼし、推戴されて皇帝となった。
即位
天成元年(926年)に即位した明宗は、都を洛陽から開封に遷した。宰相として馮道を登用し、内政に注力した。宦官の勢力を抑制し、支配地に大規模な検地を行なって税制の整備を行なった。また、自身も奢侈を禁じて倹約に努め、三司徒を創設するなど、内政に多大な成果を挙げた。また代州出身の異民族として漢民族に君臨することを悩み、夜な夜な香を炊いて天を祭り「私は異民族出身なので天下を整えることが出来ません。天よ!願わくば早く聖人を生み、天下の民を助けて下さい」と漢民族の天子の生誕を祈ったといわれる[2]。その謙虚さゆえに国内は安定して、明宗は五代の中でも屈指の名君とまで讃えられている。
しかし、軍部に推戴されて即位した経緯から、軍部を優遇して大きな権力を与えた結果、軍部の驕慢と専横を招き、長興4年(933年)に明宗が崩御してわずか3年で後唐が滅ぶ遠因となった。
宗室
后妃
- 正室:和武憲皇后曹氏、昭懿皇后夏氏(追封)
- 側室:宣憲皇后魏氏(即位前没)、淑妃王氏
- 昭儀王氏、昭容葛氏、昭媛劉氏、楚国夫人孫氏、御正張氏、司宝郭氏、司賛于氏、尚服王氏、司記崔氏、司膳翟氏、司醞呉氏、婕妤高氏、美人沈氏、順御朱氏、司飾聊氏、司衣劉氏、司薬孟氏、梳篦張氏、司服王氏、櫛篦傅氏、知客張氏、郡夫人江氏
男子
李従璟(李従審)、李従栄(秦王)、李従厚(閔皇帝)、李従益(許王)
女子
永寧公主 - 石敬瑭(後晋の高祖)の妻(皇后)。- 興平公主、永安公主、寿安公主、永楽公主
甥
- 李従璨
- 李従璋
- 李従温
- 李従敏
脚注
^ 『新五代史』によると「李霓」または「李電」。
^ 野史の「大宋宣和遺事」に見える故事。『中国古典文学全集7・大宋宣和遺事』神谷衡平訳・平凡社によった。
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