橘家圓喬 (4代目)




































4代目 橘家 圓喬(たちばなや えんきょう)
本名
柴田 清五郎
生年月日

1865年12月26日
没年月日

(1912-11-22) 1912年11月22日(46歳没)
出身地

日本の旗 日本・東京
師匠
初代三遊亭圓朝
名跡
1. 三遊亭朝太(1872年 - 1878年)
2. 2代目三遊亭圓好(1878年 - 1885年)
3. 4代目三遊亭圓喬(1885年 - 1887年)
4. 4代目橘家圓喬(1887年 - 1912年)
活動期間
1872年 - 1912年



4代目橘家 圓喬(たちばなや えんきょう、慶応元年11月9日(1865年12月26日) - 大正元年(1912年)11月22日)は、東京出身の落語家。本名:柴田清五郎。(元は桑原で養子になり柴田になったと思われる。)


1865年11月9日本所柳原の生まれ、父は政府の御家人。近所に義理の姉婿であった4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)が住んでおり、叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり、1872年に7歳で三遊亭圓朝門下に入門し三遊亭朝太を名乗る。1878年に二つ目昇進し、2代目三遊亭圓好に改名。このころから4代目三遊亭圓橘の助言で素噺に転向も周囲の評判が悪く廃業し1882年には東京を離れ焼き物師を志すために京都を目指したが途中に立花家橘之助の一座に出会い帯同、3年間上方で修行、1885年に兵役検査で東京に戻り4代目三遊亭?圓喬となり1887年ころには改めて4代目橘家圓喬を襲名し、日本橋瀬戸物町の伊勢本で真打昇進披露。1903年には「第一次落語研究会」発足に参加。1912年11月16日新宿末廣亭での最後の高座。その6日後、宿痾の肺病のため死去。日本橋住吉町の玄冶店に住んでいたので「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などで呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、狷介な性格が災いして立ち消えになった。


気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川のはア。ありゃ噺(はなし)じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。


だが、芸に対しては真剣であり、前座や若手相手に熱心に噺の指導をして自分の出番を忘れたり、5代目三遊亭圓生が前座のころ、圓喬に噺の間違いを指摘したらいきなり正座して「ありがとうございました。」と一礼したという。また初代三遊亭右女助(後の4代目古今亭今輔)が大阪からきたばかりで、馴染みがなく困っていたところを、圓喬は右女助の高座の前で引っ込む際に「さて次に上がりまする右女助は大阪から来たばかりなので、よろしくおひきたてのほどをお願い申し上げます。」との口上を毎晩言って助けるなど人情味の厚い一面もあった。


墓所は豊島区法明寺。辞世の句は『筆持って月と話すや冬の宵』。


「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」「たらちね」「安中草三郎」などを得意とする。後世に大きな影響を与えた名人であり、「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。


弟子に2代目蜃気楼龍玉、橘家小圓喬(立岩栄吉、4代目三遊亭圓生の実子)、4代目三遊亭圓好(中田音吉)、3代目三遊亭金朝、橘家林喬(林林蔵)、橘家喬之助(畑中ます、「チンクシャ」の喬之助)、橘家岩喬(瀬川栄助、後の3代目柳亭左龍)、橘家東喬(小林捨吉、後の9代目金原亭馬生)、橘家喬雀(小林兼次郎、後の三遊亭遊朝)、橘家喬雀(郷嘉七)、橘家喬生(中田徳太郎、後の朝寝坊志らく、初代三遊亭圓之助の実子)、橘家喬太(山内正次郎、後の三遊亭圓丈)、橘家三木助(上方の桂仁左衛門門下から東京に出て2代目桂三木助)、橘家右圓喬(後の初代柳家三語楼)、橘家喬松(後の9代目土橋亭里う馬)などがいた。



6代目圓生が分析した圓朝との比較


話術の巧さは、師匠圓朝を凌いだと言われている。剣豪榊原鍵吉(撃剣興行で演芸界にも馴染みがあった)は「圓朝は研いだ正宗、(圓喬の兄弟子の)二代目圓馬は研がない正宗、圓喬は村正」と評した。6代目三遊亭圓生は「芸の品格のあるなしではないか。」圓喬の技術は完璧すぎて「あまりに欠点のない、兎の毛でついたほどのすきもないというのはかえって妙味が少ない。」と、その評を分析している。日本画家鏑木清方は「とにかく圓朝はうまかった。圓喬もうまかったが巧さが違う。」と証言している。これについても圓生は「圓朝は自然の品位であり、地であったが、圓喬はそれを装っていた。」と分析している。



エピソード


とある真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「鰍沢」をかけ、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだという。話芸の極致として語り継がれている逸話である。


上方落語の3代目桂米朝はこの逸話を自らの噺のマクラで紹介し、その後で「弟子の2代目桂ざこばが真夏に『不動坊』という真冬の噺をかけていたら、お客さんが上着を着たり、まくり上げていた袖を下ろしたりしたので『こいつも名人になったな』と感心していたが、あとで聞いたら会場のクーラーが効き過ぎていた」というオチをつけて定番のギャグにしていた時期があった。



出典


  • 三遊亭圓生,1999,『新版 寄席育ち』青蛙房,ISBN 4790501051



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