東京
西新宿
東京スカイツリー/レインボーブリッジ
渋谷/国会議事堂
墨田区上空に視点をとり、南西方向にカメラを向け、丸の内あたりから品川あたりの高層ビル群(黒っぽいかたまり)を、画面上方の中央あたりに据えた写真。港区にある東京タワーもビル群の背後に小さく写っている。画面右下から左上へ流れる川は隅田川。川が流れる先、画面左上の(薄く見える)湾は東京湾。画面中央部やや左には 特徴ある台形の形をした江戸東京博物館 の白い建物も見える。画面下は墨田区の街々、小ビル群と家々。(2014年、東京スカイツリーより撮影)。クリックすると拡大して細部まで見ることができる。
東京(とうきょう、英語: Tokyo)とは、日本の関東平野中央部の東京湾に面する世界最大級のメトロポリスであり、日本の事実上の首都である。
元々は江戸幕府の所在地であった江戸が慶応4年7月(1868年9月)に「東京」に名称変更されて始まった都市である。1869年3月28日に、日本の都(みやこ)が京都から「東京」に遷された[1]。その時以来、日本の事実上の首都の役割も担って来た[注 1]。
高度経済成長期以降の東京はメトロポリスや世界都市としての機能も果たしている。他の国の都市には見られない程に治安が良く、秒単位で運行が管理され殆ど遅延の無い鉄道インフラが巨大な網の目状に整備され それを用いて膨大な種類の施設に行くことが可能で、また様々な民間組織によってきめ細やかなサービスが提供されており、日本文化の発信地でもあるため、世界からの評価も非常に高い都市である。
拡大を続けた東京は、ついには周辺の横浜市やさいたま市や千葉市などとの間の切れ目もほぼ消失し、周辺の都市と融合することで一種の巨大な都市圏を形成し、世界1位の人口とGDPを擁する世界最大のメガシティの中核的な部分ともなっている[注 2]。[注 3]
目次
1 概要・沿革
2 名称の由来
3 江戸(前史)
4 行政区分
4.1 東京府
4.2 東京市
4.3 東京都
4.3.1 東京市の後裔としての東京都
4.3.2 東京府の後裔としての東京都
4.4 東京都区部
5 東京圏
6 「東京地方」
7 慣例としての「東京」
8 ギャラリー
9 その他
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
概要・沿革
1868年に江戸(江戸幕府の所在地)から名称変更された。東京奠都を経て、現在では事実上の首都機能を担っている都市である。場所は関東平野にあり東京湾に面している。
「東京」という名称を用いる構想は江戸時代後期の佐藤信淵の書にあり、大久保利通がその書の影響を受けつつ「東京」とすることを建言した。→#名称の由来
1868年(慶応4年)に府制を施行[1]、東京府となった。
1878年(明治11年)に伊豆諸島、1880年(明治13年)に小笠原諸島を編入[2]。
1889年(明治22年)5月1日には、東京15区を東京府から分立して東京市とした。
1893年(明治26年)4月1日に、東京府及び神奈川県境域変更に関する法律により、多摩地域は神奈川県から東京府へ編入されてほぼ現在の東京都の境域が確定した。
東京市は、1923年(大正12年)の関東大震災によって人口が増加した周辺の町村を1932年(昭和7年)に合併し35区になった[2]。市域は最終的には現在の東京都区部とほぼ同地域となった。
1938年(昭和13年)6月に内務省が「東京都制案要綱」発表し、1943年(昭和18年)1月に政府が「東京都制案」を帝国議会に提出し可決されたことを受け、同年7月1日に東京都制が施行され、東京府と東京市を廃止する形で東京都に統合された[2]。35区は1947年(昭和22年)3月15日に東京22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日、旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区となって東京23区となり、現在に至っている。
現在は、東京には、23特別区・26市・5町・8村の基礎自治体がある。人口は(2010年時点で)1316万人[2]。
現在(2010年代時点)、国際連合の統計によると、東京は世界最大の都市と評価されており、横浜・さいたまなどとともに世界最大の人口を有する都市圏(約3500万人)を形成している[3]。都市単位の経済規模 (GDP)ではニューヨークを凌ぎ、世界最大である[4]。日本の森ビル傘下の民間研究所が2017年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン・ニューヨークに次ぐ世界3位と評価された[5]。また、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングでは、ロンドン・ニューヨーク・パリ・シンガポールに次ぐ世界5位と評価された[6]。
英国情報誌モノクル (MONOCLE) による「世界の住みやすい都市ランキング」では、2013年版では5位、2014年版では2位[7]、2015年版では1位。
名称の由来
江戸を東京と改称する構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていた[8][9]。佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので、そのためには、都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記したのである。
大久保利通が「東京」と改称することを提案
大久保利通が佐藤の書に影響を受けて江戸を東京と改称することを建言したという[8]。
1868年9月(慶応4年(明治元年)7月)に出された『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』において江戸の町奉行支配地域を管轄する東京府が設置されると書かれたことにより「東京」という名称が用いられることになった。
こうして「東京」と表記されることは決まったのだが、読み方については根拠となるような法令が出たわけでもなかった。「とうきやう」(呉音)が正規に使われたが、明治20年代前半頃は漢音読みの習慣も残っていたため「とうけい」の読みも少なくなかった[10]。日刊新聞の発達により人々が情報を共有する機会が広がり、第1期国定国語教科書で「東京」の振り仮名が「トーキョー」と表記され、混在はなくなった。なお漢字については、昭和初期までは「東亰」という表記も混用されていた[11]。この「亰」という文字は「京」の異体字である[12]。「亰」を使ったのは、中国の東京(Dongjing、ドンジン)との混同を防ぐためともいわれるが、後に同じ字となった。
江戸(前史)
名称の上では江戸は東京の「前史」にあたりはするが、現在の東京の基本構造は「江戸」の基本構造がそのまま踏襲されているため、この記事でも概略を解説する。
1727年に西欧で出版された江戸の地図
江戸は太田道灌築城の江戸城に徳川家康が入り、家康による新たな構想に基づいて構築された都市である。
豊臣秀吉に命令され小田原攻めに参加した諸大名は、(それまでの日本にほとんど例がなかった)小田原城の壮大な総構え(従来のように戦乱時に城と主君ばかりを護り、商家や民家は見捨ててしまう、というやりかたではなく、商家や民家まで含めて地域(経済)全体を堀や城壁で護るしくみ)や、海際の土地でも川から真水を引き入れ飲料水として用いる巧みな水道技術(小田原早川上水)を目の当たりにした(目撃者のひとりに徳川家康もいた)。総がまえという発想やしくみを目の当たりにした豊臣秀吉は、後に大阪城を構築する時に商家・民家も囲む巨大な外堀という形で取り入れた。
徳川家康が築いた江戸城のまわりには(小田原城の総構えや、大阪城の巨大な堀を参考にしつつ)巨大な外堀および内堀が渦巻状(「の」の字状)に作られており、南北・東西に水路が張り巡らされ、内海(東京湾)や利根川にまで通じる水路が整備され、水運によって各地から江戸への物資供給および江戸内の物流を支え、また重要な交通インフラであった。
江戸は江戸湾に面していて、特に海寄りの場所では井戸を掘っても塩気のある水が出てしまい飲料水には適さなかった。(これはちょうど小田原城やその城下町が海の近くにあり、井戸水が塩水になり飲料水として使えなかったのと同じであった。)徳川家康は江戸に、小田原の早川上水と同じように川から真水を引く水道を作ることにし、(高低差等、さまざまな条件を考慮し)多摩川から水を引くことを命じ、多数の人々が参加した壮絶な工事の末に玉川上水が引かれたのである。
こうした骨格となるインフラは現在の東京まで、基本的にはあまり変わらず継承されている。内堀は現在も皇居の周辺をとりかこみ、侵入者を防ぐ機能を果たしている。水路・運河は現在も多くが残っており、例えば小名木川は隅田川と(旧)中川を東西に結ぶ大きな水路(運河)であるが、昭和時代も重要な物流インフラであったのであり、現在でも運河沿いの工場に様々な資源物資を運ぶのに使われているし、観光・遊覧船も行き来している。江戸城のお堀は1964年のオリンピックにあわせて都心に高速道路を通そうとした時にも道路を物理的に通すための貴重な空間として利用されたのであり、つまり時代を経て船が自動車に変わりはしたが、都市の交通を支える役割を果たしたのである。また、玉川上水は今も東京の水道局の現役の水道施設として活用されている。
東京という都市が比較的うまく発展してきたのは、この都市を最初に構想した徳川家康の先見性、大胆な構想力と細やかな配慮によるところが大きい[13]。
また江戸の各場所に付けられた名称、例えば坂の名称、丘(山)の名称、町の名前 等々等々は、その多くが現在の東京にいたるまで用いられ続けている。江戸時代に作られた切絵図(区割した地図。市街図)に書かれている地名・町名・横丁名等の多くが現在まで継承されている。

愛宕山から見た江戸。1865年~1866年頃撮影。
日本橋。(広重画、1833年頃)
行政区分
東京府
1868年(慶応4年、明治元年)から1943年まで。
1868年に発せられた「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」により、それまでの江戸府を改名する形で発足した。江戸を引き継いで発足したため、その範囲は、のちの東京15区とほぼ同じ範囲に限られていたが、1878年に静岡県から伊豆諸島を、1880年に内務省から小笠原諸島を、1893年に神奈川県から多摩地域を引き継ぎ、この多摩地域の引き継ぎによって、現代の東京都とほぼ同じ範囲にまで拡大した。

1888年の地図
東京府役所(大正時代撮影)

1870年の銀座(江戸東京博物館の模型)

東京府時代の五反田・大崎あたりの地図(1925年)
東京市
東京市がおおまかに分かる地図。中心の黄色に囲まれた所に東京市の15区がある。その周りを5つの郡が取り囲む。 3時の方向から反時計回りに *南葛飾郡(紫色) *南足立郡(オレンジ色) *北豊島郡(緑色) *豊多摩郡(青紫色) *北多摩郡(青緑色) *荏原郡(サーモン色)
1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)まで。1906年(明治39年)に人口が初めて200万人を突破。関東大震災によって人口が増加した周辺の町村を1923年(大正12年)に合併。
(旧)道路法施行令第8条の1により、日本橋の中央に東京市道路元標が置かれた[14]。
東京府は、他の府県と同様、1874年に導入した大区小区制が定着せず、代わって1878年に成立した郡区町村編制法によって、中心部に区を、それ以外の郊外には町村を置いた。このとき中心部に置かれたのが東京15区であり、その範囲は、概ね旧朱引内に相当していたが、一部の範囲には変更が加えられている。その後、1889年の市制特例施行により、東京府は、東京15区の区域を以て東京市を成立させた。しかし、東京市は、東京府知事が東京市長を兼務し、独自の市役所も置かれず、他方でそれまでの東京15区にはそれまでの区役所や区議会が存続するなど、変則的な市制となっていた。他の一般市に比べて都市化が進んでいながら、他の一般市に比べて権限が大幅に制限されたこの市制特例は、東京市(東京15区)側・市民側からの評判も悪く、1898年には一般市制が東京市にも施行され、独自の市役所や独自の東京市長も誕生することとなった。
その後、1923年の関東大震災などを経ると、東京市に隣接する東京府下の町村への人口流出が加速した。1932年にはこうした隣接町村を合併し、いわゆる大東京市が成立、東京市には東京35区が置かれることとなった。また、1936年には砧村・千歳村が世田谷区に編入され、これを以て、東京市は、現代の東京都区部とほぼ同じ範囲となった。
現代では東京市は消滅しているが、東京市に一般市制が施行された10月1日が都民の日として記念日となっていたり、現在の東京都章が東京市章のものを引き継いでいたりと、現在の東京都のアイデンティティのルーツとなっている。

東京市の市標

東京市道路元標は日本橋の真ん中に設置された(ただし写真は移設後)
関東大震災で焼けた地点(1933年の図)
1923年の関東大震災直後の日本橋

角筈1丁目あたりの地図
東京都
東京市発足後、東京市を東京府と合併させる「東京都制」の構想は、度々政府や議会で論じられることはあったが、明治・大正期にあっては、具体的にその構想が進展することはなかった。しかし、昭和に入り、日中戦争・太平洋戦争が開戦するに至って、戦時統制の一環として、1943年、東京都制が内務省主導で施行された。これにより、東京府と東京市は廃止され、代わって旧東京府内・旧東京市内の区域を以て、東京都が設置された。旧東京市内にあった区は、東京都の直轄となり、他の市町村が行使できる権限・権能の一部は、東京市から東京都に移管された。従って、東京都は、他の府県同様、広域行政機関でありつつも、旧東京市内にあっては、市役所としての機能も果たすこととなった。
東京都制は、戦後の地方自治法施行によって廃止されたが、旧東京市内の区は特別区(東京都区部)として定義され、引き続き、他の市町村に比べ、行使できる権限が制限されることになった。よって、東京都制は若干の変更を加えられつつも、広域自治体と基礎自治体の機能を一部併せ持つという基本的な構造は変わっていない。
東京市の後裔としての東京都
東京都は東京市と東京府が合併して成立したことにより、公的に旧東京市地域を管轄する地方自治体として位置づけられており、オリンピックの招致活動などでは東京都知事が東京の市長として扱われる。これはロンドン(グレーター・ロンドン)と似た構造となっている。
東京府の後裔としての東京都
東京都は、府県制時代の東京府の性格も有している。したがって、東京都は日本の47都道府県の一つでもある。東京府の行政区域を受け継いだため、多摩地域や伊豆諸島・小笠原諸島までの広大な海域・島嶼(とうしょ)も含まれる。府県制から都制へ移行した1943年(昭和18年)まで、東京府には東京市・八王子市・立川市の3市があったが、都制施行と共に東京市が23区へ解体されたため、東京都下の市は八王子市と立川市の2市に減った。その後、新憲法施行に伴い地方自治法が施行され、東京都三多摩地区には2市以外にも多くの市が誕生した。
東京都区部
東京都区部は、東京都東半分を占める23個の特別区から構成される地域である。旧東京市15区(麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区)の各区部は後に大東京35区に再編・拡大され、戦後東京22区を経て現在の東京23区となった。
統計などで東京都区部を「東京」という一つの都市として扱う場合もあるが、1943年7月1日に東京市が廃止されて以降、東京都区部を一体として管轄する地方自治体は存在しない(区長がおり、区議会や区役所があるなど、個々の区が市と同等の扱いをされている。しかも政令指定都市ではなく、海外ランキングにおいても「東京都」として区別される)。
また、東京都区部(総称:東京)は東京都の都庁所在地として認識される。都庁所在地は「すべての市町村を記載する」という決まりがあるため、千代田区時代と同様に東京の都庁所在地として「新宿区」と記載することができない[15]。条例上の都庁の住居表示は「東京都新宿区西新宿二丁目」となっている(東京都庁の位置を定める条例)。
東京圏
東京圏は、東京都区部を中心とする都市圏である。法令上は、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の都県域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である「多極分散型国土形成促進法施行令」第6条で定める広域をいう[16]。ここでは様々な法令が引用されているため難解であるが、まとめると次の区域となる。
首都圏整備法第2条第3項に規定する「既成市街地」は全域- 同条第4項に規定する「近郊整備地帯」も全域
- 同条第5項に規定する「都市開発区域」
茨城県土浦市、つくば市、かすみがうら市、稲敷郡阿見町の「都市開発区域」
埼玉県熊谷市(旧妻沼町、旧大里町、旧江南町の区域を除く)、埼玉県深谷市(旧岡部町、旧川本町、旧花園町の区域を除く)の「都市開発区域」
具体的には、国土交通省が告示したものが分かりやすい[17]。
なお、国土交通省では首都圏整備法に基づき、毎年「首都圏整備に関する年次報告」を国会に提出しているが、そこでは東京圏を埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県と定義している。東京圏の人口は、3000万人を超えており、人口は、2位のジャカルタと大きく差をつけている。(2400万人程度)世界1位、仮に圏民全員が、日本人だとしたら、4人に1人が、東京圏民となる。
「東京地方」
「東京地方」は、主として天気予報における用語であり、東京都から島嶼部を除いた区域を指す。

東京都区部

東京都区部と多摩地域(気象情報における東京地方)

東京都

東京都市圏(都市雇用圏)

国土地理院地図より東京都東部の標高地図(濃い青は海より低い場所)
慣例としての「東京」
- 道路標識上の「東京」 → 日本橋(中央区日本橋室町)を指し示している。
- 都庁所在地の「東京」 → 東京都特別区(旧東京市)を指し示している。
- 鉄道における「東京」 → 東京駅(千代田区丸の内)を指し示している。
- 気象観測における「東京」 → 気象庁本庁舎からほど近い地点(千代田区北の丸公園)を指し示している。[18]
- 航空における「東京」 → 東京国際空港 (大田区)を指し示している。
ギャラリー

現在の日本橋

江戸城の内堀の内側は現在 皇居や公園(北の丸公園ほか)等々として用いられている

江戸時代に 西の隅田川から東の旧中川を直線で結ぶようにつくられ江戸の水運網の一部だった小名木川は今もしっかり残っていて、今でも資源の運搬に使われており、また現代的な遊覧船も行き交う。

玉川上水。江戸時代から続く東京の上水道。江戸の飲料水不足を解消するため徳川幕府の命で庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負い、人生をかけて、そして自分の財産を売ってまで工事を進め完成させた。玉川上水は江戸っ子の自慢だった。そして現在も東京の水源であり水量の1/3ほどを支える重要なインフラとして大切に使われている。また、玉川上水沿いの小道の多くは都民の憩いの空間になっている。(写真は羽村市付近)
幕末に江戸幕府が異国船対策で大砲・砲台を設置するために作った要塞が「台場」であり、その遺構の周辺に「お台場」が発展。写真はお台場から見た風景。左下の海面に台場(=要塞)が見え、レインボーブリッジの向こう側には港区のビル群や東京タワーが見える。

国会議事堂。1936年竣工。日本国の国会は東京で開かれている。また、国会議事堂の周辺には主要な政党の本部がある。日本国の政治機能の多くが東京に集中しているのである。

霞が関。かつての江戸城の南側にあたり、大名屋敷(江戸藩邸)があった場所である。日本の中央省庁が集中する。
東京駅。1914年開業。赤レンガの歴史的な建造物。西日本等々から鉄道で東京に来る人にとっての東京の玄関口のような存在。

上野駅。東北の人々にとっては1991年まで「東京」の玄関と言えば上野駅であった。東北人にとっては、東京についたことを実感させる東京のシンボルのような駅であり、また故郷と自分をつないでくれる特別な思い入れのある駅だったという。

東京国際空港。所在地から「羽田空港」とも呼ばれている。飛行機で東京に来る人にとっての東京の玄関口。
1958年(昭和33年)ころから2011年まで しばしば東京の象徴的光景として使われた東京タワー。2012年から数年間は東京スカイツリーの完成に人々の関心が引き付けられた影響でメディアへの露出が一時的に相当減ったが、最近は、再び東京の象徴としてメディアの画面に登場する頻度が(やや)回復傾向にある。
2012年以降、(東京タワーとともに)東京の象徴として頻繁に登場している東京スカイツリー

新宿の高層ビル群ごしに富士山を望む

東京都庁舎(新宿区)。無料の展望台もあるので観光客なども多数訪れる。

秋葉原。かつては下級武士の住居などがあった場所が、電気街として世界的に有名になり、さらに様々なマニアが集う街、そして大学が置かれたりシンポジウムが行われる場所になっている。
浅草 浅草寺。江戸に入った徳川家康は天正18年(1590年)に浅草寺を祈願所とし寺領を与えた。明暦の大火(1657年)の後、浅草寺裏に吉原遊廓が移転してきた。現在、浅草は東京の下町の一部。浅草寺の数百メートル内に、(吉原の隣だった名残で、かつては女性の姿を見せていて)今では芸人たちの様々な芸を見せるフランス座、また下町風の遊園地「浅草花やしき」もある。浅草寺周辺は東京の中でも特にスリが多い。

江戸東京博物館(墨田区)。江戸と東京、そこでの人々の暮らし等々について楽しく詳しく学ぶことができる。

東京都内の区市町村で一番人口が多い世田谷区。区内の多くは閑静な住宅街である。

東京と言っても都会とは限らない。柴又は、東京の東の端に位置し、今でも下町情緒が漂う場所。『男はつらいよ』シリーズ、いわゆる寅さんで全国的に有名になった。写真は帝釈天付近。

東京の西寄りの場所、福生(ふっさ)で1940年ころから建設された横田飛行場は、戦後はアメリカ空軍基地や自衛隊基地として使われている。周囲にはアメリカ兵向けの店などが並ぶ。多摩地区など東京の西寄りの住民にとっては羽田の空港はいささか遠すぎるので、この横田飛行場への民間機の乗り入れを希望する声も相当にあるが、軍事的・政治的な事情も絡んでいて実現には至っていない。

東京の西の端のほうにある高尾山。標高わずか599mの山ではあるが、ふもとまで鉄道が引かれていて東京の膨大な人口の影響もあり、年間の登山者(訪問者)数はなんと260万人以上。年間登山者数世界一の山だとも。高尾山は歴史ある霊場で神社仏閣なども多数あり、東京に住む外国人が日本の独特の雰囲気を手軽に味わうことのできる場所としても人気のスポットで、ミシュランガイドで観光地として最高ランクの三つ星が与えられている。
東京都の西の端あたりの西多摩郡にある檜原村(ひのはらむら)はそのほとんどが山の中。ジャガイモ、コンニャクイモ、ワサビ、きのこ 等が特産品。

東京都には伊豆大島も含まれる。

東京付近の地理的概況(河川、市街地、緑地 等々)が判るランドサット画像(1986年)
その他
和文通話表で、「と」を送る際に「東京のト」と言う。
脚注
- 注
^ 「首都」に関しては、様々な辞典類・事典類にそう記述されている[1][2]が、直接的に首都が東京であることを定めた法令は存在しない。詳細は「日本の首都」も参照
^ 世界の都市圏人口の順位を参照
^ 「世界1位」というのは、あくまで横浜市・さいたま市・千葉市などの存在やその数字も加えたものである。東京単独では、そうではない。
- 出典
- ^ abc広辞苑第六版「東京」
- ^ abcde大辞泉 東京
^ The World’s Cities in 2016 United Nations 2016年10月24日閲覧。
^ Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World Chicago Council on Global Affairs 2016年10月28日閲覧。
^ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017 森記念財団都市戦略研究所 2017年10月26日閲覧。
^ JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表 JLL 2017年10月26日閲覧。
^ [headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150516-00000013-zuuonline-bus_all ]
- ^ ab明治21年、織田完之訂『混同秘策』の寅賓居士(織田完之)による序(近代デジタルライブラリー)
^ 大正6年、東京市史稿 第4冊 第4篇(近代デジタルライブラリー)
^ 「かんせい」学院と読みます - 関西学院大学
^ 鈴木理生『東京の地名がわかる事典』日本実業出版社、2002年2月、P19。
^ 東京のことを「東亰」と書いてあるのを見たことがあるのですが、この「亰」は「京」とどう違うのですか?
^ 注 - 世界の様々な都市の歴史を辿ると、初期設計で誤ったために、発展とともに物流や衛生などの面で大きな困難に見舞われ、場当たり的な対策もやがて手づまりになり、ついには別に都市を作り直し、以前の街並みが半ば放棄されてしまうような事例も多々ある(例えばエディンバラなどがそうである)。江戸-東京がそういう展開を免れたのは、徳川家康の基本構想が優れていたおかげである。地形を見極めた上で、場所を決定する能力も高かった。ここには戦国時代の武将として数々の戦によって育まれた地理に対する洞察力がある。また織田信長、羽柴秀吉らによって累積的に蓄積されてきた土木のノウハウもあった。また、羽柴秀吉の家臣らが小田原攻めの時に吸収した北条一族のノウハウも生きている。江戸城の堀は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、北条氏の総構えを参考にしつつ大阪城で作った堀を、さらに強化・発展させたものである。また江戸の土木工事を実際に担ったのは、各地の大名やその家来たちであり、彼らが誇りをかけて土木技術を競い合った結果、当時の日本の最高の技術を結集する形で江戸の基本ができたわけである。
^ 昭和47年に日本橋北詰「元標の広場」(35.684407°N 139.774383°E) に移設。「東京市道路元標」と書かれている。
^ 東京都の都庁所在地は,なぜ「東京」となっているのでしょうか。(東京書籍)
^ 「多極分散型国土形成促進法」第22条第1項
^ 国土交通省関東地方整備局建政部
^ http://www.jma-net.go.jp/tokyo/sub_index/tokyo/kitanomaru/kitanomaru.html 「東京」の気象観測地点の移転について 従前は気象庁本庁舎敷地内(千代田区大手町)で観測していたが、本庁舎建て替えに合わせて現地へ移転した。
関連項目
- 日本の首都
- 東京奠都
- 東京行幸
東京都庁(東京都の組織)- 世界都市
- 都心回帰
- 武蔵国
- 京葉
- 京浜
- 「東京」で始まる記事の一覧
外部リンク
- 行政
- 東京都
- 観光
- 東京都オフィシャル観光サイト
- 東京観光財団オフィシャルサイト
- 大会東京 ミスユニバースジャパン
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