三条実美
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日本の政治家 さんじょう さねとみ | |
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三条実美(『近世名士写真 其1』より) | |
生年月日 | 1837年3月13日 (天保8年2月7日) |
出生地 | 日本 山城国京都 (現:京都府京都市) |
没年月日 | (1891-02-18) 1891年2月18日(53歳没) |
死没地 | 日本 東京府東京市麻布区麻布市兵衛町 |
前職 | 公卿 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 正一位 大勲位菊花大綬章 公爵 |
配偶者 | 三条治子 |
子女 | 三条公美 三条公輝 河鰭実英 閑院宮載仁親王妃智恵子 毛利美佐子 大谷章子 平松高子 高倉篤子 |
親族 | 三条季晴(高祖父) 山内豊敷(高祖父) 三条実起(曾祖父) 山内豊雍(曾祖父) 三条公修(祖父) 山内豊策(祖父) 三条実万(父) 鷹司輔煕(義父) 東三条公恭(養子) 三条公睦(兄) 河鰭実文(弟) 閑院宮載仁親王(娘婿) 毛利元昭(娘婿) 大谷光演(娘婿) 高倉篤麿(娘婿) 三条実憲(孫) 三条実春(孫) 三条公隆(曾孫) |
内閣総理大臣兼任 | |
内閣 | 三條暫定内閣 |
在任期間 | 1889年10月25日 - 1889年12月24日 |
初代 内大臣 | |
在任期間 | 1885年12月22日 - 1891年2月18日 |
太政大臣 | |
在任期間 | 1871年9月13日 - 1885年12月22日 |
右大臣 | |
在任期間 | 1869年8月15日 - 1871年9月13日 |
外国事務総督 | |
在任期間 | 1868年2月10日 - 1868年2月18日 |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1890年2月 - 1891年2月18日) |
三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字:三條實美、天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)は、日本の公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。
右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。元勲。
目次
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 八月十八日の政変
1.3 明治政府
1.4 黒田内閣
1.5 晩年
2 人物
3 系譜
4 官歴
5 栄典
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 演じた人物
9 関連項目
10 外部リンク
生涯
生い立ち
天保8年(1837年)、議奏を務める三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。安政元年(1854年)、次兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。
八月十八日の政変
文久3年(1863年)には、中川宮ら公武合体派の皇族・公卿と薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。長州藩に匿われるが、元治元年(1864年)の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては、福岡藩へ預けられる。太宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。また、その途中に宗像の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した。この間に、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の高杉晋作らが太宰府の延寿王院に集まり、時勢を語り合った。この延寿王院には坂本龍馬も訪ねてきている。
明治政府
慶応3年(1867年)の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。翌慶応4年(1868年)には副総裁。戊辰戦争においては、関東観察使として江戸へ赴く。明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)には太政大臣となった。
明治6年(1873年)の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷らの征韓派と岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板挟みになり、その心労から人事不省状態に陥り、大久保や吉井友実らの周旋で岩倉が太政大臣代理となって事態を収拾した(明治6年の政変)。明治15年(1882年)、大勲位菊花大綬章を受章する。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。
黒田内閣
明治22年(1889年)、折からの条約改正交渉が暗礁に乗り上げ、外務大臣の大隈重信が国家主義団体・玄洋社の団員に爆裂弾を投げつけられて右脚切断の重傷を負うという事件が発生した。進退窮まった黒田内閣は、1週間後の10月25日、全閣僚の辞表を提出した。ところが、明治天皇は、黒田清隆の辞表のみを受理して、他の閣僚には引き続きその任に当たることを命じるとともに、内大臣の実美に内閣総理大臣を兼任させて、内閣を存続させた。この時点で大日本帝国憲法はすでに公布されていたが、まだ施行はされていなかった。諸制度の運用に関してはまだ柔軟性があり、天皇の気まぐれもまだ許容された時代だった。
実美は明治2年(1869年)に太政官制が導入されて以来、実権はさておき、名目上は常に明治政府の首班として、諸事万端を整えることに努めてきたが、伊藤博文の主導する内閣制度の導入によって、これに終止符が打たれたのは、この4年前のことだった。伊藤が内閣総理大臣に就任したことに伴って、実美は内大臣に就任した後は、天皇の側近としてこれを「常侍輔弼」することになったのだが、そもそも内大臣府は実美処遇のために創られた名誉職であり、実際は彼を二階へ上げて梯子を外したも同然だった。これに対して、かつて実美に仕えていたことがある尾崎三良(元老院議官)は、実美に対して強く抗議すべきであると進言したが、実美は「国家将来のためのことであり、私自身の問題ではない」として、尾崎に対して軽挙を戒めている[1]。明治天皇が実美に首相を兼任させたのは、上記の実美の境遇を気の毒に思ったことが影響している。
天皇が実美に下した命は「臨時兼任」ではなく「兼任」であり、しかも、その後は何の沙汰も下さない日が続いた。天皇が次の山縣有朋に組閣の大命を下したのは実に2ヵ月も経った同年12月24日のことだった。そのため、この期間はひとつの内閣が存在したものとして、これを「三条暫定内閣」と呼ぶことになった。
しかし、やがて憲法が施行され、内閣総理大臣の「臨時兼任」や「臨時代理」が制度として定着すると、この実美による総理兼任の背後事情は、次第に過去の特別な例外として扱われるようになった。今日ではこの2ヵ月間に「内大臣の実美が内閣総理大臣を兼任していた」とはしながらも、それは「黒田内閣の延長」であって「実美は歴代の内閣総理大臣には含めない」とすることが研究の趨勢となっている。
晩年
明治24年(1891年)、インフルエンザ罹患により55歳で死去。死の直前に正一位を授与[注釈 1]。国葬をもって送られた。大正時代になって、京都御所に隣接した三条邸跡の梨木神社に合祀された。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。
人物
- 七卿落ちの途中、長州藩に匿われていた折の歌碑が萩市の明神池にある。また、宗像市の唐津街道赤間宿に1ヵ月間宿泊した記念に、赤間には「五卿西遷の碑」がある。太宰府天満宮の延寿王院前に「七卿落ち」碑、邸内に「五卿遺跡」碑があるが、太宰府市、筑紫野市周辺には実美に関係するものが残っている。
- 幕末には尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であったらしい。明治にはその温和な性格から、政府内の対立を調停する役割も果たした。
- 内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の1つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって三条は初代内閣総理大臣になり損ねたのである。
- 新政府樹立と共に、ほとんどの公卿が閑職に追いやられた中、希な経歴の持ち主であった。また、最後の太政大臣として太政官制を最後まで擁護しながらも、内閣制度の発足に伴い、内大臣職を宛てがわれると、これが三条処遇のために作られた名誉職である事を承知の上であっさりと引き受け、初代内閣総理大臣・伊藤博文の門出を祝った。
キリスト教嫌いで知られ、西南戦争当時に博愛社(後の日本赤十字社)が結成された際、白地赤十字の標章を「耶蘇のしるしじゃ」と認めず、日章の下に赤の横線1本をひいたものに変えさせた。- 事典等では常用漢字体で「三条実美」と表記されることが多いが[2]、内閣官房内閣広報室が運営する総理大臣官邸のウェブサイトでは「三條實美」[3]と表記している。
系譜
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ・三条家の生まれ。
父
贈右大臣・実万
母
土佐藩主・山内豊策の女・紀子
妻
関白・鷹司輔煕の九女・治子(1848年 - 1924年)
男子
三条公美、三条公輝、河鰭実英
女子
閑院宮載仁親王妃智恵子、毛利元昭公爵夫人・美佐子、大谷光演伯爵夫人・章子[4]、平松時陽子爵夫人・高子[4]、高倉篤麿子爵夫人・篤子[4]
養子
東三条公恭(兄・公睦の子)
官歴
嘉永2年12月19日(1850年1月31日)、従五位下に叙位。- 嘉永7年(1854年)
6月10日(7月4日)、従五位上に昇叙。
8月8日(9月29日)、侍従に任官。
8月27日(10月18日)、元服し禁色を賜り、昇殿を聴される。- 改元して安政元年12月15日(1855年2月1日)、正五位下に昇叙し侍従如元。
- 安政2年(1855年)
4月7日(5月22日)、従四位上に昇叙し侍従如元。
9月17日(10月27日)、右近衛権少将に転任。
12月22日(1856年1月29日)、正四位下に昇叙し右近衛権少将如元。
文久2年(1862年)
閏8月21日(10月14日)、左近衛権中将に転任。
9月15日(11月6日)、従三位に昇叙し、左近衛権中将如元。
9月28日(11月19日)、権中納言に転任。
12月27日(1863年2月15日)、朝廷内に国事御用掛を設置するに伴い、兼帯。
- 文久3年8月24日(1863年10月6日)、国事御用掛を含めて解官。
慶応3年(1867年)
12月8日(1868年1月2日)、従三位に復位。- 12月27日(1868年1月21日)、明治政府の議定に就任。
- 慶応4年(1868年)
1月9日(2月2日)、明治政府(この年のみ、以下政府と付す)副総裁を兼帯。
1月17日(2月10日)、政府外国事務総督を兼帯。
1月20日(2月13日)、政府外国事務総督を辞す。
2月2日(2月24日)、権大納言に転任。
4月22日(5月14日)、左近衛大将を兼任。
閏4月21日(6月11日)、政府の制度改正により、副総裁から輔相に異動。議定は、議政官たる上局議定となる。- 閏4月22日(6月12日)、従一位に昇叙し権大納言左近衛大将輔相議定如元。
5月24日(7月13日)、右大臣に転任。左近衛大将輔相議定如元。
明治2年(1869年)
5月13日(6月22日)、議定を辞す。
7月8日(8月15日)、制度改正により、右大臣に。
- 明治4年(1871年)
6月27日(8月13日)、神祇伯を兼帯。
7月29日(9月13日)、制度改正により、太政大臣に。
8月10日(9月24日)、神祇伯を辞す。
- 明治9年(1876年)12月29日、勲一等旭日大綬章を受章。
- 明治15年(1882年)4月11日、大勲位菊花大綬章を受章。
- 明治17年(1884年)7月7日、公爵授爵。
- 明治18年(1885年)12月22日、太政官制廃止と内閣制度発足を受け、内大臣に。
- 明治22年(1889年)
10月25日、内閣総理大臣・黒田清隆の辞任に伴い、内閣総理大臣を兼任。
12月24日、第1次山縣内閣発足により、内閣総理大臣兼任を解く。
- 明治23年(1890年)2月、帝国議会発足により、貴族院公爵議員に。
- 明治24年(1891年)
2月18日、叙正一位。同日、薨去。
栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 公爵[5]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
脚注
注釈
^ 生前の正一位叙位は史上6人目・745年ぶり。また生前に正一位を叙位された最後の例である。
出典
^ 『尾崎三良自叙略伝』
^ 例:国会図書館サイト
^ 「黑田内閣-明治21年4月30日成立」『黑田内閣』内閣官房内閣広報室。
- ^ abc『平成新修旧華族家系大成』上巻、697頁。
^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
参考文献
筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、昭和51年
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
演じた人物
菅貫太郎 三姉妹 (1967年、NHK大河ドラマ)
青山哲也 竜馬がゆく (1968年、NHK大河ドラマ)
角野卓造 翔ぶが如く (1990年、NHK大河ドラマ)
池内万作 龍馬伝 (2010年、NHK大河ドラマ)
上杉祥三 花燃ゆ (2015年、NHK大河ドラマ)
野村万蔵 西郷どん (2018年、NHK大河ドラマ)
関連項目
内閣総理大臣 - 太政官制から内閣制へ移行する頃の実美をめぐる逸話など。- 尾崎三良
官報 - 題字の揮毫者が実美。
石津太神社 - 鳥居に掛かる扁額を書いたとされている。
山形市立病院済生館 - 開院に際しての命名および旧本館の扁額を揮毫。- 景山龍造
外部リンク
- 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(所蔵)
- 国立国会図書館 憲政資料室 三条家文書(MF:神宮文庫蔵)
公職 | ||
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先代: (新設) | 内大臣 初代:1885年12月22日 - 1891年2月18日 | 次代: 徳大寺実則 |
先代: 鷹司政通 | 太政大臣 1871年 - 1885年 | 次代: (廃止) |
先代: 大炊御門家信 | 右大臣 1869年 - 1871年 | 次代: 岩倉具視 |
先代: 中山忠能 | 神祇伯 1871年 | 次代: (廃止) |
日本の爵位 | ||
先代: 叙爵 | 公爵 三条家初代 1884年 - 1891年 | 次代: 三条公美 |
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