那須資景
凡例 那須資景 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正14年(1586年) |
死没 | 明暦2年1月25日(1656年2月20日) |
改名 | 藤王丸(幼名)[1]→資久(初名)[2]→資景 |
別名 | 与一[1] |
戒名 | 日山洞智須峰院[1] |
墓所 | 栃木県大田原市玄性寺 |
官位 | 従五位下・左京大夫[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
藩 | 下野那須藩主 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須資晴、母:陽月貞春大姉[2](結城晴朝娘)[1] |
妻 | 小山氏娘[1] |
子 | 資重、喜連川尊信正室 養子:資弥 |
那須 資景(なす すけかげ)は、江戸時代前期の旗本・大名。那須氏22代当主。下野那須藩初代藩主。
生涯
天正14年(1586年)、那須資晴の子として誕生。天正18年(1590年)、父・資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、一度は改易されたが、重臣・大田原晴清の陳謝により、当時5歳であった藤王丸に5000石の所領が与えられ、那須氏は存続を許される。さらに資晴も後に赦され、5000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、伊王野資信らと共に会津の上杉景勝に備えた[3]。同年に300石を加増された。慶長7年(1602年)にも1000石を与えられ、さらに一族の高瀬弥六に200石、大田原周防守に200石、那須八郎に880石、大田原弥次郎に440石が加増され、那須家の所領は計8080石となった。慶長11年(1606年)12月25日、従五位下・左京大夫に叙任される[4]。
慶長15年(1610年)、父・資晴が没すると遺領6000石を継ぎ、合計で1万4080石の大名として那須藩を立藩した。慶長19年(1614年)・翌元和元年(1615年)の大坂の陣では本多正信隊に属し、落人の首75級を挙げている。寛永元年(1624年)、隠居し、家督を長男・資重に譲った[5]。しかし、寛永19年(1642年)、資重は父に先立って死去し、那須藩は無嗣改易となる。ただし、資景は存命していたため、5000石を与えられ、旗本として那須家の存続は認められた[6]。承応元年(1652年)2月18日、青木利長の次男を養子に迎え、資弥を名乗らせた[7][8]。
明暦2年(1656年)1月25日、死去。享年71。
家督を継いだ資弥は後年更に5000石の加増を受けると同時に蔵米2000俵の俸禄が采地2000石に改められたため、合計石高が1万2000石に達し、那須氏は再び大名に返り咲き、那須藩となった。
脚注
- ^ abcdef『寛政重修諸家譜』
- ^ ab『那須系図』
^ 『史料綜覧』第11編之913 240頁
^ 『大日本史料』第12編之4 497頁
^ 『史料綜覧』第12編之916 83頁
^ 『人見私記』
^ 『那須家譜』
^ 資弥の姉・お楽の方(宝樹院)は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室であり、4代将軍・家綱の生母であり、資弥は養子縁組以前に既に幕府の小姓として俸禄蔵米2000俵を支給されていた。また、資弥が那須氏の家督を相続し旗本となった後も蔵米2000俵の支給は続いた。
出典
- 『寛政重修諸家譜』(七百三十五)
- 『那須譜見聞録』(三 所収 『那須系図』、那須由緒)
- 『譜牒餘録』(那須遠江守書上)
- 『続武家補任』(十三)
- 『那須家譜』
- 『人見私記』(三月十五日)
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