交代寄合
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交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して、所領に住み江戸へ参勤交代を行う[1]寄合の意。
目次
1 概要
2 交代寄合の一覧
2.1 表向御礼衆
2.2 四衆
2.3 その他
3 以前に交代寄合であった家の代表例
4 脚注
概要
交代寄合が出来た理由について、小川恭一は以下のように述べている。交代寄合が領地を賜っている時期は大阪の陣前後が多く、陣屋を構えている地域は交通の要衝であり、陣屋を構えるに当たっては寛政譜では、特に四衆には「山賊やキリシタンに備えよ」などの幕府からの指示が書かれていることが多い。つまり、交通の要衝に大身旗本と陣屋を配置して大坂方への備えとしたのであろう、と。[2]
交代寄合の用語は1703年(元禄16年)刊行の武鑑が初出。20家が表向御礼衆と呼ばれるようになるのは元文期(1736-1740)頃という。禄高が1万石以下ではあったが、旗本が江戸在府であり若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため大名と同等、もしくはそれに準ずる待遇を受けた。江戸城内での伺候席は一部の家は“帝鑑間”、ほとんどは“柳間”に詰めた。
また大名と同様に参勤交代することを許されていたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として100石に付き金2両を8月と2月に分納した。
官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはほとんどなかった[3]。
交代寄合の一覧
須原屋版『文化13年武鑑』による、1816年~1817年頃の交代寄合は以下の通り。この一覧以外にも以前に交代寄合であった家がある(代表例を末尾に記述)。
表向御礼衆
表向御礼衆は大名と同じ扱いを受け、登城の際は表御殿でそれぞれの間に詰める大名嫡子の後に将軍と拝謁した[4]。太字は維新立藩により大名として認められた家。
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
菅沼家 | 三河設楽郡新城領7,000石 | 帝鑑間詰 | 元丹波亀山藩藩主 |
竹谷松平家 | 三河宝飯郡西郡領4,500石 | 帝鑑間詰 | 元吉田藩藩主 |
榊原家 | 駿河有度郡久能領1,800石 | 帝鑑間詰 | 久能山東照宮門番 家督時に五位諸大夫任官 榊原康政の兄・榊原清政の家系。 |
本堂家 | 常陸新治郡志筑領8,000石 | 柳間詰 | 和賀氏一族。維新後は志筑藩主を経て男爵。 |
生駒家 | 出羽由利郡矢島領8,000石 | 柳間詰 | 元高松藩藩主。維新後に石高直しを行い再立藩し、矢島藩主を経て男爵。 |
山名家 | 但馬七美郡村岡領6,700石 | 柳間詰 | 屋形号。因幡守護だった山名豊国の子孫。維新後は村岡藩主を経て男爵。 |
池田松平家 | 播磨神崎郡福本領6,000石 | 柳間詰 | 鳥取藩池田松平相模守家分家 元播磨山崎藩主・元因幡鹿奴藩主 初代池田松平輝澄は徳川家康娘・督姫男。維新後は福本藩主を経て男爵。 |
平野家 | 大和十市郡田原本領5,000石 | 柳間詰 | 賤ヶ岳の七本槍の一人平野長泰の家系。維新後は田原本藩主を経て男爵。 |
木下家 | 豊後速見郡立石領5,000石 | 柳間詰 | 日出藩分家 |
山崎家 | 備中川上郡成羽領5,000石 | 柳間詰 | 元丸亀藩分家。維新後は成羽藩主を経て男爵。 |
最上家 | 近江蒲生郡大森領5,000石 | 柳間詰 | 元山形藩藩主・屋形号 |
戸川家 | 備中都宇郡撫川領5,000石 | 柳間詰 | 元庭瀬藩藩主 |
竹中家 | 美濃不破郡岩手領5,000石 | 柳間詰 | 竹中重治の家系 |
溝口家 | 陸奥岩瀬郡横田領5,000石 | 柳間詰 | 新発田藩分家 |
朽木家 | 近江高島郡朽木領4,770石 | 柳間詰 | 福知山藩本家筋 |
近藤家 | 遠江引佐郡気賀領3,459石 | 柳間詰 | 元井伊谷藩藩主 |
金森家 | 越前南条郡白崎領3,000石 | 柳間詰 | 元郡上八幡藩藩主分家 |
五島家 | 肥前松浦郡富江領3,000石 | 柳間詰 | 福江藩分家 |
伊東家 | 日向那珂郡飫肥領3,000石 | 柳間詰 | 飫肥藩分家(家祖は第3代飫肥藩主伊東祐久の三男伊東祐春) |
四衆
四衆は下野国の那須衆、美濃国の美濃衆、信濃国の信濃(伊那)衆、三河国の三河衆の四か国出身家の総称であり、「四州」とかけられている。表向御礼衆と異なり、将軍とは廊下で通りがかりの拝謁しかできない。このため「御勝手御礼衆」とも呼ばれる。那須衆は隔年参府、他は数年に一度の参府であった[4]。
- 那須衆
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
那須家 | 下野那須郡福原領3,500石 | 柳間詰 | 元烏山藩藩主 |
福原家 | 下野那須郡佐久山領3,500石 | 柳間詰 | 那須氏一族、福原資孝裔 |
芦野家 | 下野那須郡芦野領3,016石 | 柳間詰 | 那須氏一族 |
大田原家 | 下野那須郡森田領1,300石 | 柳間詰 | 大田原藩分家 |
- 美濃衆
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
高木西家 | 美濃養老郡多良領2,300石 | 柳間詰 | 源信光裔高木貞利流 |
高木東家 | 美濃養老郡多良領1,000石 | 柳間詰 | 高木貞友流 |
高木北家 | 美濃養老郡多良領1,000石 | 柳間詰 | 高木貞俊流 |
- 信濃伊那衆
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
知久家 | 信濃伊那郡阿島領2,700石 | 柳間詰 | 諏訪氏一族 |
小笠原家 | 信濃伊那郡伊豆木領1,000石 | 柳間詰 | 勝山藩分家 |
座光寺家 | 信濃伊那郡山吹領1,115石 | 柳間詰 | 称源為朝裔 |
- 三河衆
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
松平郷松平家 | 三河加茂郡松平領440石 | 柳間詰 | 松平家庶長子家 |
中島家 | 三河渥美郡大崎領607石 | 柳間詰 | 備中松山藩板倉家類家、板倉勝重養子の裔 |
- 四衆に準ずる家
四衆同様、廊下での将軍拝謁を行った。米良家は人吉藩相良氏の支配とされ、寛政重修諸家譜でも独立の項目ではなく、相良氏の項目に記載されている。
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
米良家 | 日向児湯郡米良領主 無高 | 柳間詰 | 肥後菊池氏後裔・肥後人吉藩相良家の扶養 |
その他
文化13年刊行の須原屋版武鑑には記載のない交代寄合である。
- 四衆に準ずる家
家 | 領地 | 伺候席 | 備考 |
---|---|---|---|
岩松家 | 上野国新田郡新田荘下田嶋120石 | 新田氏の末裔。維新後は新田義貞の功により男爵。 |
以前に交代寄合であった家の代表例
家 | 領地 | 備考 |
---|---|---|
松前氏 | 蝦夷嶋主 無高 | 享保4年(1719年)1万石格 柳間詰 諸侯 |
喜連川氏 | 下野喜連川御所4,500石→5,000石(10万石格) | 御所号 正徳4年(1714年)頃高家、享保3年(1718年)頃諸侯扱い。維新後は子爵。 |
久松松平家 | 下総多古8,000石 | 正徳3年(1713年)1万2,000石に加増となり諸侯に列する |
石河家 | 美濃加々島4,520石 | 万治2年(1659年)寄合 |
一色家 | 武蔵幸手3,500石 | 嗣子なく断絶し子孫は寄合三河国内3,500石 |
打越家 | 常陸新宮3,000石 | 出自は由利十二頭 嗣子なく断絶し子孫は旗本500石 |
大嶋家 | 美濃2,000石 | 美濃関藩分家 分知減高に付き伺いの上交代御免となり、旗本摂津・美濃国内2,000石 |
織田家 | 大和宇陀内2,700石 | 宇陀松山藩(のち柏原藩)の分家 一時小普請となるが、元禄14年(1701年)表高家へ |
京極(田中)家 | 1,000石 | 3代高久の代に旗本上野国内1,000石 |
新庄家 | 常陸鹿島郡7,000石 | 常陸麻生藩分家 後に常陸麻生藩を相続し領知収公 |
神保家 | 大和高市郡6,000石 | 寛政重修諸家譜に寛文・延宝に交代の例あり 寄合 |
神保家 | 下総香取郡1,500石 | |
高原家 | 讃岐直島2,000石 | 親不孝の廉により改易 |
多羅尾家 | 近江信楽500石 | |
津軽家 | 陸奥国黒石4,000石 | 陸奥弘前藩分家 後に本藩より6,000石分与され10,000石となり諸侯に列する |
津田家 | 美濃3,011石余 | 織田氏一族 寄合 |
妻木家 | 美濃妻木7,500石 | 妻木頼忠-頼利-頼次(無嗣断絶) 無嗣断絶後、頼次の舎弟・幸広が妻木上郷500石にて御家再興。以後、明治維新に至る |
遠山家 | 美濃明知6,530石余 | 5代伊清以降寄合 |
能勢家 | 摂津地黄4,008石 | 交代の例あり |
花房家 | 備中内5,000石 | 旧宇喜多氏家臣 3代幸昌以降寄合 |
平岡家 | 美濃2,000石→5,000石 | 美濃徳野藩名跡 願いによって寄合へ |
本多家 | 遠江4,260石余 | 三河岡崎藩(→信濃飯山藩)分家 初代助久・2代利重が交代寄合・帝鑑間詰 |
長沢松平家 | 三河中根村11町歩芝地→三河長沢300石(小普請) | 長沢松平家惣領、交代寄合四衆・三河衆 |
長沢松平家 | 三河形原5,000石 | 元越後高田藩主松平忠輝附家老 3代信実無嗣断絶 |
溝口家 | 越後池端5,000石 | 越後新発田藩分家 3代直武以降寄合 |
- 以下は交代寄合であったと推定される家である(真偽不明)
家 | 領地 | 備考 |
---|---|---|
赤松(石野)家 | 上総3,015石 | 寄合 |
戸田家 | 美濃5,000石 | 美濃加納藩(→信濃松本藩)松平(戸田)家分家 寄合 |
戸田家 | 美濃5,000石 | 美濃大垣藩分家 寄合 |
宮原家 | 下野1,140石 | 慶長7年(1602年)高家 |
由良家 | 常陸牛久1,000石 | 寛文5年(1665年)高家 |
岡本家 | 下野塩谷3,860石 | 断絶 |
千本家 | 下野芳賀郡3,870石 | 那須七騎 無嗣断絶 再興後旗本1,050石 |
近藤家 | 信濃伊那郡山本4,300石 | 初代近藤政成は美濃内1万石、2代重直・3代重信は交代寄合 4代政徳以降寄合 |
久松松平家 | 信濃禰津5,000石 | 美濃大垣藩主松平忠良の長子で信濃小諸藩主松平忠憲の庶兄にあたる松平忠利が父の遺領の内5,000石を分知され寄合に列する。寛永の頃に交代寄合に列したが、その後寄合格となる。 |
などである。
脚注
^ 代々采地への暇を賜う(寛政譜)
^ 小川恭一編『江戸幕府旗本人名事典』別巻の解説より
^ 交代寄合の役職就任は例が希少で、表向御礼衆の松平康郷・松平康真・松平康盛・松平康正、菅沼定用、近藤用和、竹中元敏、平野長里、山名矩豊・山名豊就、最上義実・最上義連、溝口宣就・溝口直道、五島運龍、池田政森・池田喜以・池田喜生、四衆の高木貞勝に限られる。
- ^ ab小川恭一『江戸の旗本事典』(講談社文庫) ISBN 978-4062736169、65-67p