改易




改易(かいえき)とは、律令制度では現職者の任を解き、新任者を補任することである。鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味し、江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪してその所領や居城・陣屋・屋敷などを没収することを意味した。なお、後者の場合、除封ともいい、所領を削減されることは減封という。




目次






  • 1 江戸時代の大名家の改易


  • 2 江戸幕府による改易の申し渡しへの配慮


  • 3 改易の主な理由


  • 4 関ヶ原の戦いで敗れた大名家の改易・減封


    • 4.1 関ヶ原戦の敗戦


    • 4.2 関ヶ原戦で西軍


    • 4.3 関ヶ原戦で逃亡


    • 4.4 関ヶ原戦で中立




  • 5 江戸時代に改易に遭った大名


  • 6 備考


  • 7 脚注


  • 8 関連項目





江戸時代の大名家の改易


関ヶ原の戦いの戦後処理により、石田三成(近江)、小西行長(肥後)、宇喜多秀家(備前岡山)、長宗我部盛親(土佐)を始め西軍についた88の大名家が改易され、その上で三成、行長等は斬首、秀家は遠流、盛親は蟄居となり、毛利家(毛利輝元及び吉川広家、毛利秀元)、上杉家(上杉景勝)など5大名家が大幅な減封を受けた。



大坂の役以後、戦争が無くなると、世嗣断絶と幕法違反による改易が主なものとなり、末期養子(大名が危篤になってから養子を願い出ること)が禁止されていたため、多くの大名家が世嗣断絶により改易となった。また福島正則は広島城無断修築を咎められた幕法違反により改易されている。大久保忠隣や本多正純のように幕府内部の権力闘争に敗れて改易された大名もいた。



改易に関する規定としては、『御定書百箇条』に、


御仕置仕形之事

  従前々之例

一 改易(かっこ内は割書で、縦書き右行に「大小渡、宿へ相帰し、」左行に「夫より為立退申候」)

    但家屋敷取上、家財無

とあり、また『諸例類纂』には、「

一 改易は、住所御構等は無構 御暇被下 平民に相成まで此名目は当主竝に嫡子に限り候事



とある。


江戸時代、大名家が咎により改易されると、大名自身は打首(島原の乱の松倉勝家)または切腹(赤穂事件の浅野長矩など)となることが多かった。それ以外でも他の大名家などへお預けとなり、厳しい監視の下で蟄居させられた(松平忠直・松平忠輝など)。城と領地は没収となり、改易となった大名家に仕えていた多くの家臣も、禄を失って浪人となった。


ただし、改易の処分を受けても後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することも少なくなかった。譜代・親藩の中には、改易処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例もある。唯一の例外として改易された有馬晴信の子直純は、そのまま跡を継ぐことが許された。


江戸時代初期には旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策が取られたために、家康、秀忠、家光の三代の時代に外様大名82家、親藩・譜代大名49家が改易された。幕府は改易、減封によって生じた空白地を天領(直轄地)にし、親藩・譜代大名を新たに配置して、外様大名を遠隔地に転封するなどして幕府権力の絶対優位を確立していった。



しかし、改易によって大量の浪人が生じて社会不安につながり、浪人による反乱未遂事件(慶安の変)が起きた。このため幕府は政策を見直し、4代家綱の時代に末期養子の禁は緩和された。5代綱吉の時代には廃絶政策は譜代大名に向けられ27家が改易された。これ以後は幕藩体制が確立して改易、転封は減少して大名は固定化されるようになり、幕末に至った。関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名127家、親藩・譜代大名121家の計248家が改易されている。



大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、武力抵抗をした大名は皆無であり、全て無抵抗で城と領地を幕府へ明渡している。


幕末に長州藩が幕府軍に武力抵抗して打ち勝ち(長州征伐)、幕府の弱体化が顕になって大名への絶対的統制は崩れ、鳥羽・伏見の戦い以後の戊辰戦争により幕藩体制は終焉した。後、明治新政府により、1家(請西藩)林家が改易、会津藩松平家、仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など22家が減封の処分を受けた。



江戸幕府による改易の申し渡しへの配慮


改易は領主と家臣、居城、領国などの解体を伴い大名の無力化を意味する。このため一つ間違えば反乱の原因となるため、江戸幕府側も周到な準備や配慮を行っている。1619年(元和5年)に安芸・備後50万石の外様大名福島正則の改易では、将軍秀忠の上洛のために正則が江戸に留め置かれた状態で改易が言い渡された。1622年(元和8年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、上使として山形城に派遣されている折りに正純に言い渡された。1632年(寛永9年)の肥後52万石の外様大名加藤忠広の改易では、幕府によって江戸に召喚されていた忠広が品川宿に逗留中の5月22日に足止めされて江戸に入れず、そのまま池上本門寺に幽閉され、24日には加藤氏の改易が将軍家光から伊達政宗他5人の外様大名に伝達、また家光は加藤氏と親戚筋に当たる徳川頼宣(夫人が忠広姉)と事前の相談を行い、一般には6月1日に改易が公表された。これらの3例は居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作ったうえで処分を言い渡している。これは改易を契機とする抗戦を予防するためであり、江戸幕府は反乱の芽を摘み取るために細心の注意を払って改易を行った[1]



改易の主な理由



  • 軍事的理由(関ヶ原の戦い、大坂の役)

  • 世嗣断絶

  • 幕法(武家諸法度)違反(城郭の違法な増改築、違法婚姻等)


  • 家中および領内統治の失敗(お家騒動、百姓一揆)

  • 乱行、乱心



関ヶ原の戦いで敗れた大名家の改易・減封


(注)禄高順。同じ禄高の大名があれば五十音順。~は以降の意。



関ヶ原戦の敗戦

























































































































































































大名 通称・官名 年月 没収減封領地名・禄高 処罰・その後
宇喜多秀家 中納言 1600.9~
備前岡山57.4万石
八丈島へ流罪
小西行長 摂津守 1600.9~
肥後宇土24万石
斬首
石田三成 治部少輔 1600.9~
近江佐和山19.7万石
斬首
織田秀信 中納言 1600.8
美濃岐阜13.3万石
出家
安国寺恵瓊 1600.9~
伊予国内6万石
斬首
大谷吉継 刑部少輔 1600.9
越前敦賀6万石
戦死
毛利勝信 壱岐守 1600.9~
豊前小倉6万石
山内家預かり
長束正家 大蔵大輔 1600.9~ 近江水口5万石 自刃
山口正弘 玄蕃頭 1600.8
加賀大聖寺5万石
戦死
石田正継 隠岐守 1600.9~ 近江国内3万石 自刃
伊藤盛正 彦兵衛 1600.9~ 美濃大垣3万石 追放、後に前田家へ仕官
島津豊久 中務大輔 1600.9
日向佐土原2.8万石→薩摩島津家(宗家)へ編入
戦死
木下頼継 山城守 1600.9 越前国内2.5万石 病死
佐藤方政 才次郎 1600.8 美濃上有知2万石 浪人
戸田勝成 武蔵守 1600.9 越前安居2万石 戦死
丸毛兼利 三郎兵衛 1600.8 美濃福束2万石 逃亡、後に前田家へ仕官
石田正澄 木工頭 1600.9~ 近江国内1.5万石 自刃
宇多頼忠 下野守 1600.9~
大和国内1.3万石
自刃
山口修弘 右京亮 1600.8
加賀国内1.3万石
戦死
石川貞清 備前守 1600.9~
尾張犬山1.2万石
剃髪
糟屋武則 内膳正 1600.9~
播磨加古川1.2万石
後に旗本へ仕官
平塚為広 因幡守 1600.9 美濃垂井1.2万石 戦死
河尻秀長 肥前守 1600.9~ 美濃苗木1万石 戦死
岸田忠氏 伯耆守 1600.9~
大和岸田1万石
南部家預かり
高木盛兼 十郎左衛門 1600.8 美濃高須1万石 堀尾家へ仕官


関ヶ原戦で西軍




























































































































































































































































































































































































































































大名 通称・官名 年月 没収減封領地名・禄高 動向・その後
長宗我部盛親 宮内少輔 1600.11
土佐浦戸22.2万石
浪人
増田長盛 右衛門尉 1600.9~
大和郡山20.3万石
高野山へ追放
青木一矩 紀伊守 1600.10
越前北庄20万石
前田利長に降伏[2]、病死(無嗣断絶か[3]
青木俊矩 右衛門佐 1600.10 越前国金剛院2万石 除封
立花宗茂 左近将監 1600.10
筑後柳河13.2万石
浪人、後に再封(棚倉藩)
宮部長煕 兵部少輔 1600.10
因幡鳥取13.1万石
南部家預かり
小早川秀包 筑後守 1600.10.10 筑後久留米13万石 毛利本家に帰参(吉敷毛利家)
丹羽長重 加賀守 1600.9~
加賀小松12.5万石
後に再封(常陸古渡藩)
小川祐忠 土佐守 1600.9~
伊予今治7万石
東軍に寝返り、病死
南条元忠 中務大輔 1600.9~
伯耆羽衣石6万石
浪人、後に豊臣家へ仕官
織田秀雄 宰相 1600.9~ 越前大野5万石 隠居
丹羽長正 備中守 1600.9~ 越前東郷5万石 浪人、後に豊臣家へ仕官
青山宗勝 修理亮 1600.9~ 越前丸岡4.6万石 浪人
小野木公郷 縫殿助 1600.10
丹波福知山4万石
自刃
田丸直昌 中務大輔 1600.9~
美濃岩村4万石
追放、後に赦免
小野寺義道 遠江守 1600.9~
出羽横手3.1万石
追放
木下利房 宮内少輔 1600.9~
若狭高浜3万石
浪人
新庄直頼 駿河守 1600.9~
摂津高槻3万石
蒲生家預かり、後に再封(麻生藩)
原勝胤 隠岐守 1600.9~ 美濃大田山3万石 自刃
堀内氏善 安房守 1600.9~
紀伊新宮2.7万石
肥後加藤家預かり
氏家行広 内膳正 1600.9~
伊勢桑名2.2万石
浪人
岡本良勝 下野守 1600.9~ 伊勢亀山2.2万石 自刃
斎村政広 左兵衛佐 1600.10
但馬竹田2.2万石
自刃
赤座直保 備後守 1600.9~ 越前今庄2万石 東軍に寝返り、前田家へ仕官
荒木重堅 備中守 1600.9~
因幡若桜2万石
自刃
池田秀氏 伊予守 1600.9~ 伊予大洲2万石 藤堂家へ仕官
木下一元 美作守 1600.9~ 不明2万石 不明
木下延重 周防守 1600.9~
播磨国内2万石
不明
多賀秀種 出雲守 1600.9~
大和宇多2万石
堀家に居候
滝川雄利 下総守 1600.10 伊勢神戸2万石 後に再封(片野藩)
早川長政 主馬首 1600.9~
豊後府内2万石
浪人
杉若氏宗 主殿頭 1600.9~
紀伊田辺1.9万石
逃亡、不明
高橋直次 主膳正 1600.10 筑後内山1.8万石 立花家預かり
筑紫広門 上野介 1600.10 筑後山下1.8万石 出家、加藤家に居候
横浜茂勝 民部少輔 1600.9~
播磨国内1.7万石
不明
氏家行継 志摩守 1600.9~
近江国内1.5万石
細川家預かり
寺田光吉 播磨守 1600.9~ 大和国内1.5万石 高野山へ追放
木村清久 弥市右衛門 1600.9~
豊後国内1.4万石
浪人
石川貞通 備後守 1600.9~
山城国内1.2万石
南部家預かり
石川頼明 掃部頭 1600.9~
播磨国内1.2万石
自刃
奥山正之 雅楽助 1600.10 越前国内1.1万石 剃髪
寺西是成 下野守 1600.9~ 伊勢国内1.07万石 剃髪
溝江長晴 彦三郎 1600.9~ 越前金津1.07万石 井伊家へ仕官
赤松則英 上総介 1600.9~
阿波住吉1万石
自刃
池田長政 河内守 1600.9~ 不明1万石 不明
上田重安 主水正 1600.9~ 越前国内1万石 逃亡、後に浅野家へ仕官
垣屋恒総 隠岐守 1600.9~
因幡浦住1万石
自刃
木村由信 宗左衛門 1600.9~ 美濃北方1万石 高野山へ追放
高田治忠 豊後守 1600.9~
丹波国内1万石
不明
寺西直次 備中守 1600.9~ 伊勢国内1万石 前田家へ仕官
中江直澄 式部少輔 1600.9~ 不明1万石 伊達家預かり
服部正栄 土佐守 1600.9~
近江国内1万石
浪人、後に豊臣家へ仕官
蒔田広定 左衛門権佐 1600.9~ 伊勢雲出1万石 高野山で蟄居、後に再封(浅尾藩)
松浦秀任 伊予守 1600.9 伊勢井生1万石 戦死
矢部定政 豊後守 1600.9~ 不明1万石 不明
山崎定勝 右京進 1600.9~ 伊勢竹原1万石 逃亡、後に豊臣家へ仕官
吉川広家 蔵人頭 1600.10.10
出雲富田14.2万石→3万石

岩国領主[4]
毛利輝元 中納言 1600.10.10
安芸広島112.0万石→29.8万石
隠居、嫡男・秀就に家督。長州藩主[5]
毛利秀元 甲斐守 1600.10.10
周防山口20万石→5万石

長府藩主
前田利政 能登守 1600.11
能登七尾21.5万石→加賀前田家(宗家)へ編入
隠居
真田昌幸 安房守 1600.12
信濃上田3.8万石→沼田真田家(長男信之)へ編入
蟄居
上杉景勝 中納言 1601.8
陸奥会津120万石→30万石

米沢藩主


関ヶ原戦で逃亡

















大名 通称・官名 年月 没収減封領地名・禄高 動向・その後
木下勝俊 少将 1600.9~
若狭小浜6.2万石
後に再封(足守藩)


関ヶ原戦で中立













































大名 通称・官名 年月 没収減封領地名・禄高 動向・その後
相馬義胤 長門守 1600
陸奥中村6万石
後に再封(相馬中村藩)
多賀谷重経 修理大夫 1601.2
常陸下妻6万石
浪人
岩城貞隆 忠次郎 1601 陸奥磐城平12万石 後に再封(信濃中村藩)
山川朝信 民部少輔 1601
下総山川2万石
後に結城氏に仕官
佐竹義宣 右京大夫 1602.5.8 常陸水戸54.5万石→20.5万石
久保田藩主[6]


江戸時代に改易に遭った大名


































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































大名 没収領地・禄高 年代 改易理由 動向・その後
小早川秀秋
備前岡山藩51万石
1602年 無嗣断絶
武田信吉
常陸水戸藩15万石
1603年 無嗣断絶 遺領は異母弟の徳川頼将が相続
堀鶴千代
越後蔵王堂藩4万石
1606年 無嗣断絶 遺領は後見人堀直寄に還付
松平忠吉
尾張清洲藩52万石
1607年 無嗣断絶 遺領は異母弟の徳川義利が相続。後に藩庁を名古屋に移転
天野康景
駿河興国寺藩1万石
1607年 殺人犯引渡しの拒否・出奔 子天野康宗が旗本として存続
稲葉通孝
豊後国内1.4万石
1607年 無嗣断絶 遺領は兄稲葉典通に還付。子稲葉通照が旗本として存続
津田信成
山城御牧藩1.3万石
1607年 乱暴狼藉
稲葉通重
美濃清水藩1.2万石
1607年 乱暴狼藉 常陸筑波に流罪
筒井定次
伊賀上野藩20万石
1608年 諸説あり(悪政、酒浸り、訴訟等)
大坂の役で自害
前田茂勝
丹波八上藩5万石
1608年 発狂
堀尾忠晴に預け。弟前田正勝が旗本として存続
桑山清晴
和泉谷川藩1万石
1609年 勘気を被る 領地は父桑山元晴に還付
小笠原吉次 常陸笠間藩3万石 1609年 私曲連座 武蔵に隠棲
中村一忠
伯耆米子藩17.5万石
1609年 無嗣断絶
木下勝俊
備中足守藩2.5万石
1609年 遺領の独占 京都東山に隠棲
松平忠頼
遠江浜松藩5万石
1609年 殺害 1622年、子の松平忠重が大名復帰
水野忠胤
三河水野藩1万石
1609年 松平忠頼殺害事件など
皆川広照
信濃飯山藩1万石
1609年 讒言 後に赦免、府中藩主
堀忠俊
越後高田藩30万石
1610年 御家騒動
鳥居忠政に預け
金森長光 美濃上有知藩2万石 1611年 無嗣断絶
平岩親吉 尾張犬山藩12万3千石 1611年 無嗣断絶
有馬晴信
肥前日野江藩4万石
1612年 岡本大八事件 切腹[7]。子有馬直純がそのまま相続
松平忠清
三河吉田藩3万石
1612年 無嗣断絶 弟松平清昌が旗本として存続
山口重政 常陸牛久藩1.5万石 1613年 嫡男・重信の無断婚姻 大坂の役の戦功で牛久藩に再封
大久保忠佐 駿河沼津藩2万石 1613年 無嗣断絶
里見忠重
上野板鼻藩1万石
1613年 勤務怠慢 義弟酒井忠勝の庄内鶴岡に国替えの際に同行し、以後は400石を拝領される
富田信高
伊予宇和島藩12万石
1613年
坂崎直盛との争い
鳥居忠政に預け。次男の系統が後に旗本
石川康長 信濃松本藩8万石 1613年
大久保長安事件に連座

毛利高政に預け
高橋元種
日向延岡藩5万石
1613年 富田信高に連座
立花宗茂に預け
石川康勝 信濃奥仁科藩1.5万石 1613年 石川康長に連座 大坂夏の陣で戦死
大久保忠隣
相模小田原藩6.5万石
1614年 諸説あり
(大久保長安事件、讒言)

井伊直孝に預け
佐野信吉
下野佐野藩3.9万石
1614年 富田信高に連座
小笠原秀政に預け。子佐野久綱・佐野公當が旗本として存続
里見忠義
安房館山藩12.2万石
1614年 大久保忠隣に連座 伯耆国倉吉藩に転封
豊臣秀頼
摂津大坂藩65.7万石
1615年
大坂の陣の敗戦
自害
古田重然 不明1万石 1615年 大坂の陣での豊臣方加担 切腹
福島高晴
大和宇陀松山藩3.1万石
1615年 大坂の陣での豊臣方密通 伊勢山田に蟄居
織田信重
伊勢林藩1万石
1615年 所領相続における争論
松平忠輝 越後高田藩60万石 1616年 大坂の陣での遅参、旗本殺害、
参内の懈怠
伊勢に流罪
藤田信吉 下野西方藩1.5万石 1616年 無嗣断絶
坂崎直盛
石見津和野藩4万石
1616年 反逆 自害(家臣に殺されたとも)
村上忠勝 越後村上藩9万石 1618年 家中騒動
松平康重に預け
関一政 伯耆黒坂藩5万石 1618年 家中騒動 養子関氏盛が旗本として存続
福島正則
安芸広島藩49.8万石
1619年 城の無断修理
高井野藩へ減転封
伊奈忠勝
武蔵小室藩1.3万石
1619年 無嗣断絶 弟伊奈忠隆が旗本として存続
田中忠政
筑後柳河藩32.5万石
1620年 無嗣断絶 兄田中吉興が2万石で再封
織田長益 大和国内1万石 1621年 死去により収公
最上義俊
出羽山形藩57万石
1622年 御家騒動(最上騒動)
大森藩へ減転封
本多正純 下野宇都宮藩15.5万石 1622年 不忠
詳細は宇都宮城釣天井事件

佐竹義宣に預け。孫本多正之が旗本として存続
成田泰之 下野烏山藩3.7万石 1622年 無嗣断絶
西尾嘉教 美濃揖斐藩2.5万石 1623年 無嗣断絶
内藤清政
安房勝山藩3万石
1623年 無嗣断絶 1626年甥の内藤正勝が2万石で再封
田中吉官
近江国内等2万石
1623年 家臣に連座 旗本
本多紀貞
上野白井藩1万石
1623年 無嗣断絶
福島正則 信濃高井野藩2万石 1624年 幕府の検使到着前の火葬 子福島正利が旗本として存続
青山忠俊
上総大多喜藩2万石
1625年 勘気を被る 蟄居。子の青山宗俊が1648年に大名復帰
根津信直
上野豊岡藩1万石
1626年 無嗣断絶
徳永昌重 美濃高須藩5万石 1628年 大坂城石垣普請の遅延 1648年、子の徳永昌勝が赦免され旗本
別所吉治
但馬八木藩2万石
1628年 仮病による参勤交代の懈怠 子の別所守治が赦免され旗本
桑山貞晴 大和御所藩2.6万石 1629年 無嗣断絶 弟の桑山栄晴が名跡を継ぎ、旗本。
酒井直次
出羽左沢藩1.2万石
1630年 無嗣断絶
織田長則 美濃野村藩1万石 1631年 無嗣断絶
池田政綱
播磨赤穂藩3.5万石
1631年 無嗣断絶 弟池田輝興が再封
三浦重勝
下総三浦藩1万石
1631年 無嗣断絶
脇坂安信
美濃脇坂藩1万石
1632年 刃傷事件
奥平忠隆
美濃加納藩10万石
1632年 無嗣断絶
加藤忠広
肥後熊本藩51万石
1632年 諸説あり(座興、法度違反など)
出羽丸岡藩に減転封
徳川忠長
駿河府中藩50万石
1632年 不行跡 自害
朝倉宣正 遠江掛川藩2.6万石 1632年 徳川忠長に連座
松平忠明に預け
鳥居忠房
甲斐谷村藩3.5万石
1632年 徳川忠長に連座
鳥居忠恒に預け。
酒井重澄 下総生実藩2.5万石 1633年 勤務怠慢
水野勝成に預け(後に自害)子酒井重知が旗本として存続
堀尾忠晴
出雲松江藩24万石
1633年 無嗣断絶
竹中重義
豊後府内藩2万石
1634年 密貿易等の不正 切腹
蒲生忠知
伊予松山藩24万石
1634年 無嗣断絶
鳥居忠恒 出羽山形藩24万石 1636年 無嗣断絶 弟鳥居忠春が高遠藩3万石
本多政武 大和高取藩3万石 1637年 無嗣断絶
松倉勝家 肥前島原藩4万石 1638年
島原の乱を発生させた悪政の引責
斬首(江戸時代の大名で唯一の斬首)
佐久間安次 信濃飯山藩3万石 1638年 無嗣断絶
成瀬之虎 下総栗原藩1.6万石 1638年 無嗣断絶
本多犬千代 下野榎本藩2.8万石 1640年 無嗣断絶
生駒高俊
讃岐高松藩17.3万石
1640年 御家騒動(生駒騒動)
堪忍料として矢島藩1万石、のち分知により交代寄合旗本となる
池田長常
備中松山藩6.5万石
1641年 無嗣断絶 弟池田長信が旗本として存続
那須資重 下野那須藩1.7万石 1642年 無嗣断絶 父那須資景が旗本として存続
堀直定 越後村上藩10万石 1642年 無嗣断絶
加藤明成
陸奥会津藩40万石
1643年 御家騒動 堪忍料吉永藩1万石
加藤明利 陸奥二本松藩3万石 1643年 加藤明成に連座、不審な死去 子加藤明勝が旗本として存続
宮城豊嗣 但馬清富藩1.3万石 1643年 無嗣断絶
松下長綱 陸奥三春藩3万石 1644年 乱心
山内忠義に預け。子松下長光が旗本として存続
松平清道 播磨姫路新田藩3万石 1644年 無嗣断絶
池田輝興 播磨赤穂藩3.5万石 1645年 乱心
池田光政に預け
皆川成郷
常陸府中藩1.3万石
1645年 無嗣断絶
真田信重 信濃埴科藩1.7万石 1647年 無嗣断絶 父真田信之に所領還付
松平憲良 信濃小諸藩5万石 1647年 無嗣断絶 弟松平康尚が長島藩立藩
菅沼定昭
丹波亀山藩3.8万石
1647年 無嗣断絶 弟菅沼定実・菅沼定賞が旗本として存続
寺沢堅高 肥前唐津藩8.3万石 1647年 自害
古田重恒 石見浜田藩5.4万石 1648年 無嗣断絶
稲葉紀通
丹波福知山藩4.5万石
1648年 乱心、自害
織田信勝
丹波柏原藩3.6万石
1650年 無嗣断絶 叔父織田信当が旗本として存続
本多勝行 大和国内4万石 1650年 無嗣断絶 父本多政勝に所領還付
松平定政 三河刈谷藩2万石 1651年 幕閣の批判
松平定行に預け。子松平定知らが旗本として存続
平岡頼資 美濃徳野藩1万石 1653年 家督継承問題 子平岡頼重が旗本として存続
加藤忠広
出羽丸岡藩1万石
1653年 無嗣断絶
杉原重玄 但馬豊岡藩1万石 1653年 無嗣断絶 大叔父杉原義正が旗本として存続
片桐為次 大和竜田藩1万石 1655年 無嗣断絶 弟片桐且昭が旗本となるが後に断絶
日根野吉明 豊後府内藩2万石 1656年 無嗣断絶
山崎治頼 讃岐丸亀藩5万石 1657年 無嗣断絶 叔父山崎豊治が旗本として存続。幕末成羽藩を立藩
北条氏重 遠江掛川藩3万石 1658年 無嗣断絶 義兄北条繁広が旗本として存続
堀田正信 下総佐倉藩11万石 1660年 無断帰城
松平重利 下野皆川藩1.5万石 1665年 無嗣断絶
一柳直興
伊予西条藩2.5万石
1665年 勤務怠慢、失政など
前田綱紀に預け
京極高国
丹後宮津藩7.8万石
1666年 親子不和、失政
南部重信に預け
水野元知 上野安中藩2万石 1667年 乱心
水野忠職に預け。子水野元朝が旗本として存続
高力隆長 肥前島原藩4万石 1668年 失政
伊達綱村に預け。子高力忠弘が旗本として存続
酒井忠解 出羽大山藩1万石 1668年 無嗣断絶
池田邦照
播磨新宮藩1万石
1670年 無嗣断絶 弟池田重教が旗本として存続
伊達宗勝 陸奥一関藩3万石 1671年 御家騒動(伊達騒動) 土佐に流罪
池田恒行 播磨山崎藩3万石 1678年 無嗣断絶
土屋直樹 上総久留里藩2万石 1679年 乱心 子土屋逵直が旗本として存続
戸川安風 備中庭瀬藩2万石 1679年 無嗣断絶 弟戸川達富が旗本として存続
堀通周 常陸玉取藩1.2万石 1679年 乱心 弟堀利雄が旗本として存続
内藤忠勝
志摩鳥羽藩3.5万石
1680年 刃傷事件 切腹
永井尚長 丹後宮津藩7.3万石 1680年 殺害、無嗣断絶 弟永井直円が大和新庄藩立藩
加賀爪直清
武蔵高坂藩1.3万石
1681年 領土問題
石川総良に預け
松平光長 越後高田藩26万石 1681年 御家騒動(越後騒動)
松平定直に預け。養子松平長矩が津山藩立藩
真田信利 上野沼田藩3万石 1681年 勤務怠慢
奥平昌章に預け。子真田信音が旗本となるが断絶
酒井忠能 駿河田中藩4万石 1681年 在国中の逼塞
井伊直興に預け。後に赦免され旗本
本多利長 遠江横須賀藩5万石 1682年 不行跡、失政
村山藩に減転封
桑山一尹
大和新庄藩1.1万石
1682年 不敬
桑山一慶・桑山一英に預け
徳川徳松 上野館林藩25万石 1683年 無嗣廃絶
土方雄隆 陸奥窪田藩1.8万石 1684年 御家騒動
榊原政邦に預け。弟土方雄賀が旗本として存続
有馬豊祐
筑後松崎藩1万石
1684年 土方雄隆に連座
有馬頼元に預け。所領は久留米藩に還付
稲葉正休 美濃青野藩1.2万石 1684年 刃傷、殺害
松平重治 上総佐貫藩1.5万石 1684年 不正
保科正容に預け。子松平勝秀が旗本として存続
松平綱昌
越前福井藩47.5万石
1686年 乱心 江戸鳥越に蟄居 前藩主の松平昌親が減封のうえで藩主再任
溝口政親 越後沢海藩1万石 1687年 乱心
加藤明英に預け
那須資徳 下野烏山藩2万石 1687年 家督相続問題
津軽信政に預け(後に旗本)
佐久間勝親 信濃長沼藩1万石 1688年 不敬
(詐病で側小姓出仕を拒否)

丹羽長次に預け
喜多見重政 武蔵喜多見藩2万石 1689年 勤務怠慢
(喜多見重治に連座とも)

松平定重に預け
山内豊明
土佐中村藩3万石
1689年 不敬
青山忠重に預け
本多政利 陸奥大久保藩1万石 1693年 失政
酒井忠真・水野忠之に預け
水谷勝美 備中松山藩5万石 1693年 無嗣断絶 弟水谷勝時が旗本として存続
本多重益 越前丸岡藩4.3万石 1695年 家臣団の争論
池田仲澄に預け。後に旗本
小出重興
和泉陶器藩1万石
1696年 無嗣断絶 叔父小出有仍が旗本として存続
小出英及 但馬出石藩5万石 1696年 無嗣断絶
森衆利
美作津山藩18.6万石
1697年 発狂
森長直に預け。父森長継が西江原藩2万石で再封
水野勝岑
備後福山藩10.1万石
1698年 無嗣断絶 傍系で高祖父のひ孫水野勝長が名跡を継ぎ、減転封し存続
伊丹勝守 甲斐徳美藩1.2万石 1698年 自害
伊達村和 陸奥中津山藩3万石 1699年 旗本との喧嘩 伊達綱村に預け
浅野長矩 播磨赤穂藩5.3万石 1701年 刃傷事件(赤穂事件) 切腹。弟浅野長広が旗本として存続
松平忠充
伊勢長島藩1万石
1702年 乱心 子松平康郷が旗本として存続
前田利昌
加賀大聖寺新田藩1万石
1709年 刃傷事件 切腹。遺領は大聖寺藩に還付
松平宗胡 越前高森藩5万石 1711年 無嗣断絶
屋代忠位 安房北条藩1万石 1712年 失政(万石騒動) 旗本
毛利元次
周防徳山藩4.5万石
1715年 宗家との争論(万役山事件)
戸沢正庸に預け。1719年、子毛利元堯が再封
小笠原長邕 豊前中津藩4万石 1716年 無嗣断絶 弟小笠原長興が安志藩立藩
浅野長経
安芸三次藩5万石
1719年 無嗣断絶 遺領は広島藩に還付
黒田長清 筑前直方藩4万石 1720年 無嗣断絶 遺領は福岡藩に還付
浅野長寔 安芸三次藩5万石 1720年 無嗣断絶 遺領は広島藩に還付
本多忠烈 大和郡山藩5万石 1723年 無嗣断絶
水野忠恒 信濃松本藩7万石 1725年 刃傷事件
秋元喬房・水野忠穀に預け。
叔父水野忠穀が旗本、1765年大浜藩立藩
京極高寛 但馬豊岡藩3.5万石 1726年 無嗣断絶 弟京極高永が1.5万石で再封
松平義真 陸奥梁川藩3万石 1729年 無嗣断絶 本家尾張藩の松平通春に再封、通春の尾張藩相続で廃藩
植村恒朝 上総勝浦藩1万石 1751年 虚偽報告
植村家道に預け。養子植村寿朝が旗本として存続
金森頼錦 美濃八幡藩3.8万石 1758年 藩内の騒動(郡上一揆)
南部利雄に預け。子金森頼興が旗本として存続
本多忠央 遠江相良藩1万石 1758年 金森頼錦に連座
松平長孝に預け
小堀政方
近江小室藩1万石
1788年 不正
大久保忠顕に預け。甥小堀政優が旗本として存続
酒井忠全 播磨姫路新田藩1万石 1817年 無嗣断絶
本郷泰固 駿河川成島藩1万石 1858年 勤務怠慢
(将軍継嗣問題関連の処分とも)
旗本
松平頼徳
常陸宍戸藩1万石
1864年
天狗党の乱の責任
切腹。明治になり父松平頼位が再封
林忠崇 上総請西藩1万石 1868年 新政府への反逆 江戸唐津藩邸に幽閉


備考



  • 大名における実例はないものの、一般の武士における改易の理由として多いものに当主・隠居の欠落(出奔・無断脱藩)によるものがある。この場合には後継者がいても改易され、捕らえられた場合には「不忠」を理由に処刑されることもあった。

  • なお、一旦改易された者が恩赦などを受ける場合もあったが、この場合の効果は改易される前の主君への再仕官が認められるという程度であり、改易前の禄高で復帰できた例は少なかった。



脚注


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  1. ^ 杣田善雄著 『日本近世の歴史 2』将軍権力の確立、吉川弘文館、2012年1月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 9784642064309。



  2. ^ 近藤瓶城編、国立国会図書館デジタルコレクション 「廃絶録」 『史籍集覧. 第11冊』 近藤出版部、1926年、3頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920318/413 国立国会図書館デジタルコレクション 


  3. ^ 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA(角川選書)、2016年 pp.107-111, 「青木重吉」


  4. ^ のち高直しにより6万石


  5. ^ 慶長15年(1610年)に領内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石


  6. ^ 石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代からである。


  7. ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介錯により討たれたとの記録もある。




関連項目




  • 転封・減封

  • お家騒動

  • 三方領知替え

  • 欠所




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