亀井静香
日本の政治家 かめい しずか | |
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2010年6月24日、渋谷駅での街頭演説にて | |
生年月日 | (1936-11-01) 1936年11月1日(82歳) |
出生地 | 日本 広島県庄原市 |
出身校 | 東京大学経済学部卒業 |
前職 | 警察庁長官官房調査官 |
所属政党 | (自由民主党[1]→) (国民新党→) (無所属→) (反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党→) (減税日本・反TPP・脱原発を実現する党→) (日本未来の党→) (みどりの風→) 無所属 |
称号 | 警視正(警察庁退官時) 経済学士(東京大学・1960年) |
親族 | 亀井郁夫(兄) |
公式サイト | 亀井静香公式Webサイト |
内閣府特命担当大臣(金融担当) | |
内閣 | 鳩山由紀夫内閣 菅内閣 |
在任期間 | 2009年9月16日 - 2010年6月11日 |
第64代 建設大臣 | |
内閣 | 第2次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年11月7日 - 1997年9月11日 |
第69代 運輸大臣 | |
内閣 | 村山内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
衆議院議員 | |
選挙区 | (旧広島3区→) 広島6区 |
当選回数 | 13回 |
在任期間 | 1979年10月8日 - 2017年9月28日 |
亀井 靜香(かめい しずか、1936年11月1日 - )は、日本の警察官僚、政治家。階級は警視正(警察庁退官時)。通常は新字体で亀井静香と表記。
衆議院議員を13期務め、運輸大臣(第69代)、建設大臣(第64代)、自由民主党政務調査会長(第43代)、国民新党代表(第2代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任した。
目次
1 概要
2 来歴
2.1 生い立ち
2.2 上京
2.3 警察庁
2.4 自由民主党
2.5 国民新党
2.5.1 金融・郵政改革担当大臣
2.5.2 外国人参政権
2.5.3 選択的夫婦別姓制度
2.5.4 郵政改革法案
2.5.5 内閣総理大臣補佐官
2.5.6 国民新党分裂、離党へ
2.6 新党構想と所属政党の変化
2.7 無所属、政界引退へ
3 人物像
3.1 交友関係
3.2 小泉政権について
3.3 エピソード
4 政治資金
5 政策
5.1 経済政策
5.2 取調べの全面可視化に反対
5.3 大型公共事業
5.4 マスメディア
5.5 カジノ
5.6 外国人参政権・人権救済侵害法案に反対
5.7 選択的夫婦別姓制度
5.8 脱原発
6 家系
7 所属している団体・議員連盟
8 役職
9 著書
10 関連項目
11 脚注
12 外部リンク
概要
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東京大学経済学部を卒業後、サラリーマンを経て警察庁に入庁。警察庁長官官房調査官を最後に退官。退官時の階級は警視正(特進を含まない階級)。退官後、衆議院議員になり、長らく自由民主党に所属。運輸大臣、建設大臣、自由民主党政務調査会長を歴任。
自民党内の派閥では清和会(福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博派)に所属していたが、平沼赳夫や中川昭一らとともに離脱し、亀井グループを旗揚げ。後に亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)を合併させ、新たに志帥会(村上・亀井派)を結成、会長を務めた[要出典]。
2001年自由民主党総裁選挙には中曽根康弘元首相や志帥会の全員一致推薦で立候補を表明していたが、総裁候補の一人であった小泉純一郎が総裁選の応援を要請。小泉と政策協定を結び、亀井は本選を辞退した。その後は小泉の応援にまわり、小泉総裁誕生に貢献。しかし、政策協定は小泉によって反故にされている[2]。
以降は郵政民営化を強力に推進する小泉と対立、2005年に自民党を離党し、綿貫民輔元衆議院議長を党首に担ぎ国民新党を結成。自らは代表代行に就任。2009年の第45回衆議院議員総選挙で綿貫が落選して党首を辞任したことに伴い代表に昇格。同年9月に発足した民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣では内閣府特命担当大臣(金融担当)に任命される。また、特命事項として郵政改革担当大臣も兼任し、中小企業金融円滑化法の成立に尽力した。2010年6月に発足した菅内閣でも留任したが、菅直人首相が郵政改革法案の成立を今国会で成立させるという国民新党と民主党との公約を破棄したため、組閣直後に閣僚を辞任した(後任は同党の自見庄三郎が就任)。
2011年6月、菅内閣 (第2次改造)の内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。しかし、首相の退陣に伴い約2ヵ月で退任。
2012年3月、消費税増税法案の取り扱いを巡り野田内閣と対立し、国民新党代表として民主党との連立政権離脱を表明。しかし、党内の連立維持派がこれを認めず、一方的に代表の解任を主張。これに対し、代表の解任は無効だと主張し、亀井亜紀子と共に国民新党を離党し無所属として活動。
野田首相が2012年11月16日に衆議院を解散したのちの11月19日に、民主党を離党した山田正彦と共に「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党(略称:反TPP)」の結成を発表。
同年11月22日に、反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党が減税日本と合流し減税日本・反TPP・脱原発を実現する党を結成すると[3]、同党の幹事長に就任[4]。
2012年11月28日、嘉田由紀子滋賀県知事が結成した日本未来の党に減税日本・反TPP・脱原発を実現する党が合流して日本未来の党所属となるが、嘉田代表と小沢一郎の党内対立の影響で同年12月27日に離党。翌12月28日にみどりの風に参加。
2013年12月31日に、みどりの風が解散したため無所属となった。
2017年10月5日に、地元である広島県尾道市にて「一緒にやっていく相棒が見つかりそうにない」などの理由から、第48回衆議院議員総選挙に出馬しないことを表明した[5]。引退表明後の挨拶まわりでは、これまでの活動について地元の支持者から感謝された[6]。木山耕三庄原市長は「国営備北丘陵公園の誘致にも力を貸してくださり、地元にとって頼りになる方だった」と評価している[6]。山陽新聞は、亀井は2015年3月に全線開通した中国横断自動車道尾道松江線を含む地元に関連したインフラ整備では国とのパイプ役として存在感を発揮したとしている[6]。
来歴
生い立ち
亀井素一・静枝夫妻の次男として広島県比婆郡山内北村(現:庄原市川北町)に、姉二人兄一人の末っ子として生まれる。
亀井は広島県内の私立修道中学校・修道高等学校に入学。高校一年生の三学期、通学定期券の購入に必要だった通学証明書の発行が有料となることに反発し、抗議活動としてビラ配りを行う。間もなくして学校側から呼び出され、教師から「ビラ配りをやめないと学校をやめさせるぞ」と脅されたため、亀井は「今すぐやめますよ」と言って高校を自主退学した[7]。
上京
修道高校を中退後、東京大学法学部に進学していた兄の亀井郁夫を頼り上京。都立日比谷高校及び都立九段高校を受験したが不合格となり、都立大泉高校に編入し卒業。高校三年生の時は、成績が常に上位5番以内だった[7]。
1956年、東京大学経済学部に入学。駒場寮で暮らし、昼夜を問わずアルバイトで生活費を稼ぐ日々を送る。家庭教師のアルバイトを1人週2回の割合で3か所こなしたこともあった。一時はアルバイトばかりに熱中して大学の授業にも顔を出さなくなっていたが、このままでは堕落してしまうと一念発起して養神館合気道を習い始める。合気道の道場で田中茂穂に出会い、田中の保守的な思想の影響を大きく受けたという。なお、在学中はマルクス・エンゲルス全集や資本論を読破するもマルクス主義より合気道に傾倒し[7]、学生運動にも参加しなかった。また、この頃、苦しむ民衆の救済に身を挺した大塩平八郎や西郷隆盛の文献を愛読した[7]。
大学内でも合気道に熱中し、これまでサークルだった合気道クラブを、正式に運動部へ昇格させた。さらに学生の合気道仲間を集めて全日本学生合気道連盟を結成し、初代委員長に就任した[8]。
在学中に、友人だった駒場自治会の委員長がアメリカ合衆国の水爆実験反対を訴えるストライキを指導したことが原因で退学処分となった。亀井はこれに憤り学校に抗議するため、駒場寮前にテントを張り、サークルの子分を引き連れてハンガー・ストライキを決行する。支援する学生からパンが投げ込まれたが、それには一切手をつけなかった。決行から1週間してドクターストップがかかったが、亀井のハンストが功を奏し、大学はその友人の退学処分を取り消した[7]。
1960年、東京大学経済学部を卒業し、別府化学工業(現:住友精化)に入社[9]。
しかし、報道で安保闘争を見て、デモ隊に対する警察の不甲斐なさに腹を立て、「俺が警察を強くしてやる」と一念発起して警察官になることを決意。会社を退職して、国家公務員採用上級試験を試しに受けたところ、3番の成績で合格。警察官採用上級試験には5番の成績で合格した。成績優秀のため各官庁からオファーがきたが、亀井の本来の希望であった警察庁に入庁[7]。
警察庁
1962年、警察庁に入庁。鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部刑事部捜査第二課長などを歴任[10]。
1971年、警察庁警備局で極左事件に関する初代責任者となり、成田空港事件、あさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などの陣頭指揮を執った[11]。成田では、機動隊の総括責任者として着任した直後に東峰十字路事件が発生し、警察官3名の殉職という事態に直面している[12]。
警察庁警備局公安第一課理事官[13]、警察庁長官官房調査官を経て1977年に退官。
15年間警察官僚として働いたが、「いくら警察で頑張っても所詮、社会の“ゴミ掃除”だ。社会のゴミを出さないようにするには政治家になるしかない」として、政治家を志す。そして、350万円の退職金を元手に衆議院議員総選挙に立候補する決意を固める。広島県北部の有力代議士で、当時引退したばかりの永山忠則に懇願し、永山の後継指名を得て選挙に挑むことになった[7]。
自由民主党
1979年10月、永山忠則の後継として第35回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧広島3区から初出馬、初当選。以後、引退まで連続当選。党内派閥では清和会(福田派)と自由革新同友会(中川派)に掛け持ちで所属した(中川派は後に福田派と合流)[要出典]。
1982年10月、自民党総裁選挙に出馬した中川一郎の推薦人となる(中川は最下位で敗北)。
1985年12月、第2次中曽根第2次改造内閣の運輸政務次官に就任[要出典]。
1986年7月、中曽根康弘首相の靖国神社参拝中止や第二次歴史教科書問題などに反発し、村上正邦や古賀誠らと共に保守系の政策集団である「国家基本問題同志会」を結成して座長に就任。「大韓民国との間に戦争が起こらない保証はない。」「日韓は断交すべき。」等の過激な発言で物議を醸す場面もあった。
1989年4月、自民党の中堅・若手国会議員を集めて派閥横断グループ「自由革新連盟」を結成し、白川勝彦と共同代表に就任。
1989年6月、自民党総裁選挙で山下元利を擁立しようとしたため、清和会から除名。
1989年8月、自民党総裁選挙に石原慎太郎を擁立するが、海部俊樹に大差で敗北。
1990年3月、衆議院農林水産委員長に就任。
1990年10月、石原慎太郎と共に清和会に復帰。
1994年2月、細川連立政権と創価学会の関係を政教一致であると批判するために自民党内の勉強会「憲法20条を考える会」を結成し、同会会長に就任。
1994年6月、日本社会党の野坂浩賢国会対策委員長との折衝で自社さ連立政権構築に尽力し、村山内閣の運輸大臣、新東京国際空港担当大臣に就任。
1994年10月、第12回成田空港問題円卓会議で運輸大臣及び新東京国際空港担当大臣として東峰十字路事件の元被告と握手を交わし、成田空港問題に一つの終止符を打つ。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙(初めての小選挙区選挙)に広島6区から出馬。自民党組織広報本部長として選挙に臨み、新進党新人候補の佐藤公治を破り当選。
1996年11月、第2次橋本内閣の建設大臣に就任。この頃、梶山静六内閣官房長官と連携して閣内から保保連合構想を唱える[要出典]。
1998年9月、森喜朗との派閥内対立により平沼赳夫などの同志21名を引き連れて清和会を離脱し、亀井グループを旗揚げ。また、中山太郎らと「日本再生会議」(中山・亀井グループ)を結成し、同グループ代表幹事に就任。
1999年3月、亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)が合流し、「志帥会」(村上・亀井派)結成。同派会長代行に就任。
1999年10月、自民党政務調査会長に就任。公共事業の見直しを表明し連日深夜に及ぶ議論の末、2兆7000億円分を削減した。
2001年4月、自民党総裁選挙に出馬するが、小泉純一郎と政策協定を結び本選挙出馬を辞退、小泉の支援に回った。しかし、小泉が首相になった後、政策協定は全て小泉に一方的に破棄された[2]。亀井は「一生の不覚だった。」とも述べている[14]。
2001年11月、死刑廃止を推進する議員連盟会長に就任。
2003年9月、自民党総裁選挙に出馬し、小泉純一郎に次ぐ2位の139票を獲得。
2003年10月、志帥会(亀井派)会長に就任し、自民党国会議員約60名を擁する派閥の領袖となった。
国民新党
2005年8月、小泉内閣が推進する郵政民営化に反対し、自民党に離党届を提出(受理されず除名処分)。後援会からは「気が狂ったのか」と散々言われたが、小泉政権のおかしな流れをここで止めなければと思った為離党届を出した[14]。志帥会会長を辞任。国民新党結党に参画する。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙において無所属(実質的には自民党執行部がバックアップ、立候補の記者会見場も自民党本部[14])で出馬した堀江貴文に苦戦を強いられるが、26,546票差で当選。当選に絶対的に自信があった為堀江に関しては質問された際「元気な若者でいいんじゃない」と言うぐらいで批判はしなかったが、「あれでは政治家として到底通用しません。本当に国民の生活を考えている政治家からは土の匂いがするものです。ホリエモンからは都会慣れした金の匂いしかしません」と述べている[14]。選挙後、国民新党の代表代行に就任。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙には、引き続き広島6区から国民新党公認と民主党の推薦を受けて立候補し、自民党の公認候補に67,479票の大差をつけて11期目の当選を果たした。この選挙では国民新党代表の綿貫民輔と幹事長の亀井久興がともに落選する事態となったため、選挙翌日に綿貫から代表を引き継いだ。
金融・郵政改革担当大臣
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2009年9月16日、民社国連立による鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した[15]。内閣府特命担当大臣の担当事務以外に、「郵政事業の抜本的な見直し及び改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[15]の特命事項を担当する(郵政改革担当大臣)。
金融担当相として行った政策
中小企業金融円滑化法 - 2009年10月に提出し、同年11月可決成立させ、年末に間にあうように12月4日より施行させた[要出典]。- 「貸し渋り・貸し剥がし」対策[要出典]
中小企業等に対する金融円滑化対策の総合的パッケージ[要出典]
その結果、2010年4月の自殺者数は警察庁発表で前年同月比18.7%の大幅減少になった。また、東京商工リサーチによると、2010年2月の企業倒産は前年同月比17.3%の激減。負債総額も64.3%減となった。しかし、この背景には2008年に起こった世界金融危機による不況からの景気回復があることも考慮する必要がある[要出典]。
これらの制度をつくった動機には、小泉政権下で国内の自殺者数と倒産数が史上最多となり、亀井の知人の中小企業経営者3人が自殺したことがある。亀井は彼らから相談を受け金融機関に掛け合ったが、貸し出しも返済猶予も断られ、社長は亀井あてに悲痛な遺書を残して逝き、副社長も後を追って自殺。亀井は葬儀に行き、遺族と一緒に抱き合って泣いたが、3日後に新しい副社長が自殺した。社長になれば、今後は自分が債務を負わなければならないからだった。亀井は真っ当な経営者や従業員が無駄な死を選ばなくて済むよう、制度改革を進めた[要出典]。
大臣就任早々、金融庁の検査官を集めて「これまで君たちは金融機関のための検査をやってきたが、これからは銀行が借り手企業のコンサルタントとして社会的役割を果たしているかをチェックするんだ」と訓示した[16]。
小泉政権で労働者派遣法が変更され、派遣社員が簡単に合法的に首切り解雇できるようになっていたため、不況により首切りにあった人が激増し、住宅ローンの支払もできず、自殺者数が史上最多となった[要出典]。また小泉政権で建築基準の審査を民営化したことにより耐震偽装事件などが発生、住居を失い会社も辞めさせられ、しかし住宅ローンだけが残り生活ができなくなった人を見て、個人にも金融機関に住宅ローンの支払期限を延長しなくてはならないというものだった。マスコミは、この「中小企業金融円滑化法」をモラトリアム法、亀井法などと呼んだ[要出典]。
衆議院の財政金融委員会で小泉の息子進次郎が亀井の考えが「時代に逆行している」と発言した為「お父さんがおやりになったところに返っても何もいいことはない」と言い返した[14]。
外国人参政権
2010年4月17日、永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)に反対する集会に出席し、「参政権付与が日本を滅ぼす。国民新党が拒否権発動しているから今国会で成立しない」と述べた[17]。
選択的夫婦別姓制度
- 選択的夫婦別姓制度の導入に反対[18][19][20][21]。
- 亀井は反対理由について、「去年から殺人事件の半分は親子兄弟夫婦(間)の殺しになった。助け合って信じあって生きていく家庭は崩壊しつつある。そういう時に夫婦の名前を別々にするのがあるべき姿なのか」と述べている[22]。
郵政改革法案
2010年6月11日未明、第174回国会での郵政改革法案成立が見送られたことを受け、「公党間の約束が履行されなかった」として民主党の菅内閣に激怒し、民主党との連立も解消をすると主張した。しかし、亀井久興に与党にとどまってほしいと懇願され、党内の4時間に及ぶ会合後、与党にはとどまることとなる。しかし、亀井静香は閣僚を辞任、後任は同党の元郵政大臣の自見庄三郎となった[23]。議員引退後に「郵政改革の道は頓挫しました。民営化から十年が経ちましたが郵政事業は縮小し買収戦略は失敗続きでいろいろと問題が出てきていると感じます。ただ、私はすでに政界を引退した身。郵政のゆく末については後の世代に託すしかないね。」と述べている[14]。
内閣総理大臣補佐官
2011年6月27日、菅第2次内閣の内閣総理大臣補佐官(内閣の重要政策全般担当)に就任。当初、菅直人首相は副総理としての入閣を打診したが固辞し、最終的には首相補佐官としての起用を了承した[24]。同年9月5日、野田内閣の発足に伴い首相補佐官を退任。
国民新党分裂、離党へ
2012年3月に野田改造内閣が消費税増税法案を閣議決定したことを巡り、連立協定違反を理由に連立政権離脱を表明。しかし、党内の多数が連立維持を主張し、国民新党副代表である自見庄三郎が閣僚(金融・郵政改革担当相)とて消費税増税法案に署名したため、国民新党は分裂。同年4月5日に党内の連立維持派は亀井の国民新党代表の解任を決定したが、亀井は代表解任は無効と主張している。その後、亀井は翌4月6日に記者会見し、「解任は有効だとは思っていないが、私はこのまま国民新党にいるべきではない。今から、日本が立ち直って行くために、一兵卒として全力を挙げてがんばっていきたい。国民新党代表のまま離党いたします。以後はもちろん代表ではありません。」と述べ、亀井亜紀子と共に国民新党を離党した[25]。
新党構想と所属政党の変化
国民新党離党後、旧知の石原慎太郎東京都知事と共に新党結成を図り水面下で活動し、石原と小沢一郎を連携させることを画策する。しかし、石原は小沢に対して強い嫌悪感を抱いており、この計画は頓挫する。2012年10月、石原が日本維新の会代表の橋下徹大阪市長と連携して第三極運動を展開すると表明する[26]。この際、今度は石原から亀井に対して新党参加への要請があったが、亀井は政策理念が異なる橋下との連携を図ろうとする石原を批判し、新党参加を拒否した[27]。その後、石原は2012年10月25日に東京都知事を辞任し、同年11月12日にたちあがれ日本を母体とした新党「太陽の党」を結成した[28]。一方亀井は民間人の有志らと協力して新党を結成する計画があると同年11月3日、テレビ東京の番組で表明した[29]。
2012年11月19日、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の交渉への参加反対を基軸政策にした「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」を、TPPに反対し民主党を離党した山田正彦と共に結成した。
同年11月22日、反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党は減税日本と合併して減税日本・反TPP・脱原発を実現する党となり、同党幹事長に就任。その後、国民の生活が第一などとの合流を前提とした新党を模索し、同年11月28日に嘉田由紀子滋賀県知事が結成した日本未来の党に減税日本・反TPP・脱原発を実現する党と国民の生活が第一が合流する形で新党が実現する。しかし、日本未来の党は結成後一ヶ月も経たない間に嘉田由紀子代表と小沢一郎の対立が表面化し、分裂状態となる。これを受け、同年12月27日に離党。翌12月28日に亀井亜紀子の仲介で平山誠と共にみどりの風に合流した。これにより、みどりの風は所属議員が4名から6名となり、政党要件を満たし、国政政党に復帰した。
しかし2013年7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙にて亀井亜紀子と平山誠を含む4名が落選し所属する国会議員は亀井と阿部知子の二人だけとなりみどりの風は再び政党要件を喪失した。みどりの風は同年12月31日に解散し、亀井は再び無所属となった。
無所属、政界引退へ
2015年3月27日、自民党や公明党、民主党や維新の党などの与野党国会議員約40名と、超党派グループ「地域活性化協議会」を結成し、同会代表に就任。安倍政権に対する地方再生への政策提言を目的としており、「日本は待ったなしだ。善政を敷いてもらわなければならない。」と、同会の活動で安倍晋三首相を支援する考えを表明した[30]。
2017年10月22日に行われる第48回衆議院議員総選挙には出馬せず、今期限りを以て政界を引退することを表明した[5]。
同年11月28日に都内のホテルで開かれた引退パーティには森喜朗、綿貫民輔、石原慎太郎、北島三郎[31]ら約800人が出席した[32]。
人物像
趣味はゴルフと油絵。油絵は2001年と2005年に個展を開いている[要出典]で、尊敬する人物はチェ・ゲバラと大塩平八郎[要出典]。
養神館合気道6段[要出典]であり時折みせる過激な言動や若手時代のタカ派的思考等の影響で強面の印象もあるが根は官僚時代から親分肌である一方、義理堅く人情家であるという[要出典]。
交友関係
相撲に造詣があり、先代武蔵川こと元横綱・三重ノ海を懇意にしているという。東京中日スポーツ2006年6月29日号の―朝青龍よ「だらしない日本の男をぶちのめせ!!」―という見出しの記事では旧武蔵川部屋の様子について「部屋が以前に比べ低迷しているのは、竹刀を振り回さないからだ。厳しく鍛えるなら、グシャグシャに折れるくらいでないとね」と部屋全盛期のスパルタぶりを証言した。それと共に朝青龍を絶賛しており「だらしない今の日本の男の子を土俵上でぶちのめしてほしい。おとなしく品よくやるのが横綱の条件ではない」 という内容の賛辞を朝青龍の結婚式に送ったこともある。当時の日本人力士の低迷についても「美しい心と肉体を失ったから。今の日本人は人間じゃない。小泉総理を筆頭に、強者が弱い者をいじめ、快感に浸っている。それでいいという世の中になっている。」小泉政権の批判に絡めた分析を行った。[33]
中川派以来の親友といわれる石原慎太郎と高速道路を走行中の車内で言い争いとなり、怒った亀井が車から石原を引きずり出し路上に置いてけぼりにしたことがあるという[34]。亀井は「あいつ(石原)はわがまま過ぎる」と話していると言うが、石原は「オレのような上品な人間には、亀井みたいな下品な人間がいた方が丁度いいんだ」と話している[35]。石原が東京都知事を辞任して太陽の党を立ち上げた際、亀井は週刊誌で度々痛烈な石原批判をしており、また石原も同時期にテレビ番組で「精神思考弱者。何を言ってるかわからない。」等と亀井を痛烈に批判するなど、一時は両者の決別を彷彿させる言動が相次いでいた。しかし、2013年6月30日に亀井の提案で開催された円卓会議に石原が飛び入りで参加しており、現在は和解している様子である[要出典]。
小泉政権について
郵政民営化を含め当時の国民は小泉政権が掲げた「改革」の熱に浮かされていました。しかし彼が作ろうとしていたのは市場原理主義のアメリカ型社会。弱い者を無慈悲に蹴落とす、弱肉強食の世の中。私はその改革路線が我慢できなかったとしている[14]。
エピソード
埼玉県警察本部刑事部捜査第二課長時代、浦和市の居酒屋で飲んでいた亀井は、近くの客がヤクザ風の男3人に絡まれているのを目にして、3人をたたきのめしたが、店内は騒然となり、パトカーが出動する騒ぎとなった。この一件で警察庁内では亀井を退官させるべしとの強硬論が強まったが、佐々淳行が庇ったため亀井は退官せずに済んだ[36]。- 警察庁時代、現職の自衛官によるクーデター計画を亀井本人が事前に情報を掴み、事実上阻止することに成功したことがある[37]。
- 2014年の第186回国会において、大臣、副大臣、政務官、補佐官、議長、副議長、委員長のいずれの要職にもついていなかったのみならず、質問、議員立法、質問主意書提出のいずれもなかったことが指摘された[38][39]。
政治資金
- 2011年に新興宗教のワールドメイトから、亀井が代表を務める「国民新党友の会」に3000万円、亀井静香後援会に200万円(ワールドメイト関連企業を含む)の献金があった[40]。
- 2013年の医療法人徳洲会から亀井へ2000万円の献金があったことが報じられている[41]。
政策
経済政策
2009年に国民新党党首として金融担当大臣に就任した。同年、閣僚の彼が提唱し、民社国連立政権として発表したいわゆるモラトリアム法案によって金融株の売りが進み、大幅に下落した事について9月27日のサンデープロジェクトにて「私が言ったから株が下がるほど脆弱な銀行は、銀行業を営んでいる資格がない」と述べた。また、「(返済猶予で)信用を失うほど投資家や国民から信頼されていないのなら、まず金融機関が自ら反省しないといけない」と主張した[42]。
亀井はかねてから大企業の談合は「悪い談合」、中小企業同士の談合は「良い談合」という持論を持ち、2009年10月21日に本来金融庁の管轄外である公正取引委員会の竹島一彦委員長等を呼び出して「良い談合」を容認する様に要求した。この際、竹島委員長は「良い談合論には『そのお金が誰の物か』と言う発想が欠けている。それ(=『良い談合』でも損をする人)は国民であり、消費者なのだ」と反論した[43]。
取調べの全面可視化に反対
犯罪の容疑者に対する取り調べの全過程を録音・録画することには反対している[44]。なお、2010年1月、記者会見で「公判に出す調書作成の過程を全面、可視化することはいいと思う」とし、限定的な可視化について容認した。
大型公共事業
東京国際空港の再拡張事業である4本目のD滑走路建設事業については、東京都知事の石原慎太郎と計り、当時の運輸省を半ば脅して、僅か15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだという[45]。
マスメディア
2009年9月に金融大臣就任後、記者クラブのオープン化を行おうとしたが加盟社に反発されたため、「第二の記者クラブ」としてフリーランス記者にオープンし、記者クラブ加盟社と別々に記者会見を行った[46]。
2010年1月に発生した小沢一郎資金管理団体政治資金規正法違反事件に関して、BS11の番組内で「今の国民は相当数が大脳皮質で冷静に判断する能力を持ってない。新聞が小沢を叩くと小沢が弁明しても誰も聞く耳を持たない。」と主張した[47]。
カジノ
石原慎太郎らと同様に、日本にカジノを導入する方針を打ち出している。既に沖縄県で進んでいるカジノ特区構想を支持し、観光、県民所得の増加を目指している[48]。だが、実際に石原慎太郎が台場でのカジノ構想を打ち出した折には、パチンコなどがネックになって実現には至っていない[要出典]。
外国人参政権・人権救済侵害法案に反対
2010年通常国会において、民主党が提出を表明していた外国人参政権・人権救済侵害法案に、亀井が反対を表明し閣議決定を拒否したため民主党は同法案を上程出来なかった[49]。
自民党が提案した国籍法改正案は、偽装認知が起きるとしてDNA鑑定を明記するよう要求。しかし、国民新党以外の党が賛成したため可決成立となった[要出典]。
選択的夫婦別姓制度
- 子の姓婚姻時の選択的夫婦別姓制度に賛成[50]。
- ただし、子の姓出生時の選択的夫婦別姓制度導入に反対しており、民主党の同法案について強硬に反対した[51][52]。
脱原発
2011年(平成23年)の福島第一原子力発電所事故後は、保守の立場から脱原発を主張している。2012年(平成24年)7月7日の報道では、石原慎太郎東京都知事をトップに、「反原発、反消費増税、反オスプレイ配備を掲げる第三極」の新党を作ると明言[53]。さらに2012年(平成24年)7月29日には国会議事堂を取り囲む反原発集会に参加し、原発再稼働を批判するスピーチを行っている[54]。ただし、完全な脱原発を主張しているのではなく、地下式原子力発電所政策推進議員連盟の顧問を務めており、放射能を地中に封じ込む地下原発に関しては容認。
家系
亀井素一、静恵の次男として生まれる。姉二人、兄一人。[55]
- 姉は俳人で俳誌「茜」を主宰していた出井知恵子(いずい ちえこ、1929年9月2日 - 1986年10月18日)[56]。
- 兄は元参議院議員で、元国民新党副代表の亀井郁夫である。
妻との間に3子。[57]また離婚した前妻との間に2子がいる。[58]
所属している団体・議員連盟
日本会議国会議員懇談会[59]
神道政治連盟国会議員懇談会[59]
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会[59]
死刑廃止を推進する議員連盟(会長)
地下式原子力発電所政策推進議員連盟(顧問)
天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(副会長)
日朝国交正常化推進議員連盟(顧問)- 国際観光産業振興議員連盟
憲法20条を考える会(会長)
国家基本問題同志会(座長)- 中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会(顧問)
役職
- 一般財団法人東京芸術財団理事[60]。
著書
- 『死刑廃止論』 (花伝社 2002年)ISBN 4-7634-0389-3
- 『繁栄のシナリオ』 (中経出版 2003年)ISBN 480611765X 教育学者・濤川栄太との対談
- 『ニッポン劇的大改造』 (扶桑社 2003年)ISBN 4594040039
- 『月刊亀井静香』 (アスコム 2003年)
- 『晋三よ! 国滅ぼしたもうことなかれ 〜傘張り浪人決起する〜 』 (メディア・パル 2014年11月29日)ISBN 978-4896108422
関連項目
- 田中茂穂
- ジェイ・エス・エス
- 砂防会館
- 五人組
- 円卓会議 (日本)
- 修道中学校・修道高等学校の人物一覧
チヨダ (警察) - テレビ朝日のドラマ「相棒」のモデルのひとつとなったとされる警察の非公式組織。- 平沢勝栄
脚注
^ 自由民主党時代の派閥は、清和会(現在の清和政策研究会)→志帥会
- ^ ab亀井静香 『晋三よ! 国滅ぼしたもうことなかれ :(傘張り浪人決起する)』 メディア・パル、2014年、149頁。ISBN 978-4896108422。
^ 減税日本と山田・亀井氏、新党結成で合意 - 読売新聞 2012年11月22日
^ 減税日本と亀井氏らが新党結成 (MSN産経ニュース2012年11月22日23:09配信(2012年11月23日閲覧)
- ^ ab「相棒見つからず」=亀井静香氏が引退表明【17衆院選】 2017年10月5日 時事ドットコムニュース。
- ^ abc亀井氏引退に支援者ら惜しむ声 「郷土に力尽くしてくれ感謝」 2017年10月5日
- ^ abcdefg朝日新聞社「一冊の本」より-合気道、マルクスに勝つ 朝日新聞編集委員早野透のインタビューより
^ 全日本学生合気道連盟の歴史全日本学生合気道連盟HPより、2012年11月23日閲覧
^ 亀井静香 『晋三よ! 国滅ぼしたもうことなかれ :(傘張り浪人決起する)』 メディア・パル、2014年、98頁。ISBN 978-4896108422。
^ 亀井静香 『晋三よ! 国滅ぼしたもうことなかれ :(傘張り浪人決起する)』 メディア・パル、2014年、102頁。ISBN 978-4896108422。
^ 亀井静香公式Webサイト プロフィールより。
^ 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店、1996年、369頁。
^ 青木理「日本の公安警察」(講談社現代新書)によると、公安警察の特殊部隊「サクラ」(現「チヨダ」)のキャップを務めていたとされる。
- ^ abcdefg文藝春秋2018年二月号、平成17年 郵政選挙は純ちゃんとのケンカだった、亀井静香、前衆議院議員、273-274頁
- ^ ab「人事異動」『官報』号外特20号、国立印刷局、2009年9月16日、1面。
^ 高橋清隆「亀井静香が吠える」ケイアンドケイプレス
^ “外国人参政権「日本滅ぼす」=都内で反対集会-国民新の亀井氏”. 時事ドットコム(時事通信社). (2010年4月17日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010041700274 2010年4月18日閲覧。
^ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査、2014年。
^ 中日新聞 平成13年12月01日
^ 産経新聞 2009年10月15日
^ 世界日報 平成22年2月24日
^ 毎日新聞 2010年2月8日
^ 「亀井静香支持率0%の突破力」 山岡淳一郎(草思社)
^ “原発相新設、細野氏を起用=環境相は江田法相兼務-政務官に自民・浜田氏”. 時事通信. (2011年6月28日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201106/2011062700578 2011年7月3日閲覧。
^ 国民新の亀井前代表、離党表明
^ 石原知事:緊急記者会見で新党結成表明へ 2012年10月25日 毎日新聞(2012年11月13日閲覧)
^ 亀井氏、石原氏に反逆「1人で死ね」2012年11月4日紙面 日刊スポーツ (2012年11月13日閲覧)
^ 太陽の党:石原氏と平沼氏が共同代表に 第三極結集を急ぐ 2012年11月13日 毎日新聞(2012年11月13日閲覧)
^ 亀井氏、独自の新党を模索 党首は実業家2012.11.3 産経新聞(2012年11月13日閲覧)[リンク切れ]
^ 政界風雲児・亀井静香氏が首相支援を表明 「日本は待ったなし。善政を敷いてもらわねば!」2015.3.27 産経新聞(2015年4月2日閲覧)
^ ここで終わるわけにはいかない!「引退パーティ」で怪気炎の亀井静香が熱唱のち訪朝? 週プレ
^ 亀井元金融相、訪朝に意欲 引退パーティーで 日本経済新聞
^ 亀井静香公式ホームページ 件の出典の内容が記録されている。
^ 佐野眞一 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 講談社、2003年、383頁
^ 佐野眞一 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 382頁
^ 「暴走か戦略か 鳩を悩ますスッポンの乱」アエラ2009年10月12日号78頁
^ 亀井静香 日本はアメリカの占領下だ BLOGOS 2017年12月08日
^ 「国会議員三ツ星データブック」、186国会版 国会議員三ツ星データブック、特定非営利法人「万年野党」著。ISBN 978-4905239239
^ 「国会質問も議員立法も質問主意書もない『オールゼロ議員』、64人全氏名を公開、BLOGOS 2014年10月15日
^ 平成23年(2011年)11月30日付官報 号外257号。
^ 産経新聞 2013年12月17日
^ 「私の発言で株価下がるような銀行は…」勢いづく亀井節アサヒコム9月27日[リンク切れ]
^ [1][リンク切れ]
^ 2009衆院選 広島6区 亀井 静香 - 毎日jp(毎日新聞)
^ 『産経新聞』2009年3月2日朝刊 1面
^ 外務省や金融庁が先行してオープン化できた理由記者クラブ問題座談会(中) : J-CASTニュース
^ 亀井氏「国民の相当数、冷静な判断能力ない」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
^ 沖縄にカジノ特区の検討を亀井氏 日本経済新聞2009年12月16日
^ 「日本大復活の真相」 83ページ 三橋 貴明 (著) あさ出版 2013年6月18日発行 ISBN 978-4860636142
^ 中日新聞 平成13年12月01日
^ 産経新聞 2009年10月15日
^ 世界日報 平成22年02月24日
^ “松田喬和の首相番日誌:輿石流「風林火山」- 毎日jp” (2012年7月7日). 2012年8月15日閲覧。
^ 「特集ワイド:国会囲む「原発ノー」の声 政治家たちに届いているか」毎日新聞2012年8月2日夕刊。
^ 亀井静香公式Webサイト「特集ワイド 国民新党代表代行 亀井静香さんのわが母」
^ 『CD 現代日本人名録 物故者編1901〜2000』(日外アソシエーツ)
^ 亀井静香公式Webサイト「夫婦の情景」
^ “亀井静香氏の息子が板橋で往診医 異変なら24時間駆け付ける”. NEWSポストセブン. (2013年5月2日). http://www.news-postseven.com/archives/20130502_184696.html
- ^ abc俵義文、日本会議の全貌、花伝社、2016年
^ 東京芸術財団(TAF)とは - 東京芸術財団
外部リンク
- 亀井静香公式Webサイト
亀井静香 (@kamei_shizuka) - Twitter
亀井静香 - Facebook
- 高校同窓生からみた亀井静香氏(金児昭・信越化学工業顧問)
議会 | ||
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先代: 近藤元次 | 衆議院農林水産委員長 1990年 - 1991年 | 次代: 大原一三 |
公職 | ||
先代: 与謝野馨 | 内閣府特命担当大臣 (金融) 第12・13代:2009年 - 2010年 | 次代: 自見庄三郎 |
先代: 中尾栄一 | 建設大臣 第64代:1996年 - 1997年 | 次代: 瓦力 |
先代: 二見伸明 | 運輸大臣 第69代:1994年 - 1995年 | 次代: 平沼赳夫 |
党職 | ||
先代: 綿貫民輔 | 国民新党代表 第2代:2009年 - 2012年 | 次代: 自見庄三郎 |
先代: 結党 | 国民新党代表代行 初代:2005年 - 2009年 | 次代: 下地幹郎 |
先代: 江藤隆美 | 志帥会会長 第3代:2003年 - 2005年 | 次代: 伊吹文明 |
先代: 池田行彦 | 自由民主党政務調査会長 第43代:1999年 - 2001年 | 次代: 麻生太郎 |
名誉職 | ||
先代: 石原慎太郎 | 最年長衆議院議員 2014年 - 2017年 | 次代: 伊吹文明 |
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