チリ






チリ共和国

República de Chile











チリの国旗 チリの国章
(国旗) (国章)


国の標語:Por la razón o la fuerza
(スペイン語:理性によって、または力によって)


国歌:チリの国歌


チリの位置









































公用語

スペイン語

首都

サンティアゴ[注記 1]
最大の都市
サンティアゴ

政府












大統領

セバスティアン・ピニェラ
首相
なし


面積











総計

756,950km2(37位)
水面積率
1.1%


人口











総計(2011年)

17,248,450人(59位)

人口密度
21,81人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2013年) 137兆8,869億[1]チリ・ペソ


GDP (MER)





合計(2013年) 2,770億[1]ドル(38位)


GDP (PPP)











合計(2013年)
3,956億[1]ドル(42位)
1人あたり 22,534[1]ドル


独立
スペインより
1818年2月12日

通貨

チリ・ペソ (CLP)

時間帯

UTC -3、-4、-6(DST:-3、-5)

ISO 3166-1
CL / CHL

ccTLD

.cl

国際電話番号
56






  1. ^ 立法府(国会)はバルパライソに置かれている。





チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ。


1818年にスペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している[2]


ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされる。




目次






  • 1 国名


  • 2 歴史


    • 2.1 先コロンブス期


    • 2.2 スペイン人による征服とアラウコ戦争


    • 2.3 独立と保守支配


    • 2.4 太平洋戦争と民主化の進展


    • 2.5 議会共和制から百日社会主義共和国まで


    • 2.6 人民戦線と人民連合


    • 2.7 アジェンデ政権


    • 2.8 チリ・クーデターとピノチェト時代


    • 2.9 民政移管以降




  • 3 政治


  • 4 国際関係


  • 5 軍事


    • 5.1 陸軍


    • 5.2 海軍


    • 5.3 空軍


    • 5.4 カラビネーロス




  • 6 地方行政区分


    • 6.1 主要都市




  • 7 地理


    • 7.1 気候


    • 7.2 時間帯




  • 8 治安


  • 9 経済


    • 9.1 工業国


    • 9.2 一次産業


    • 9.3 観光


    • 9.4 鉱業


    • 9.5 農業と畜産


    • 9.6 水産




  • 10 インフラストラクチャ


    • 10.1 動力


    • 10.2 電気通信




  • 11 交通


    • 11.1 航空


    • 11.2 鉄道


    • 11.3 自動車




  • 12 社会


    • 12.1 人口


    • 12.2 言語


    • 12.3 宗教


    • 12.4 保健


    • 12.5 教育




  • 13 文化


    • 13.1 食文化


    • 13.2 文学


    • 13.3 音楽


    • 13.4 映画


    • 13.5 世界遺産


    • 13.6 祝祭日


    • 13.7 スポーツ




  • 14 科学技術


  • 15 国の象徴


  • 16 著名な出身者


  • 17 脚註


  • 18 参考文献


    • 18.1 歴史


    • 18.2 政治


    • 18.3 地理


    • 18.4 経済


    • 18.5 社会


    • 18.6 紀行




  • 19 関連項目


  • 20 外部リンク





国名





1600年頃のラ・プラタ地方の地図。「Chili」、「Chicas」と表記されている


正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チレ)。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ)。


日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった[3]。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる[4]。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。


国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。この他、先住民の言葉で「地の果て」、「カモメ」[5]、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来する、などである。[6][7]



歴史




先コロンブス期


ヨーロッパ人がこの地を訪れる以前の先コロンブス期には、チリの中央部や南部には先住民のマプチェ族やその系統のピクンチェ族などが居住しており、また、ポリネシア系の住人が太平洋を東に渡って上陸していた可能性も指摘されている。[8]


15世紀に入ると、クスコを拠点に拡大したケチュア人のインカ帝国の皇帝トゥパク・インカ・ユパンキやワイナ・カパックらの征服により、北部は組み込まれたが、マウレ川付近で帝国はマプチェ族の激しい抵抗に遭遇した。トゥパク・インカ・ユパンキの率いる軍はマウレの戦い(英語版)でマプチェ族の軍に敗れ南部への拡大は停止、マプチェ族が支配し続けることになった。


一方本土から遥か西のパスクア島には、ポリネシア系のラパ・ヌイ人(スペイン語版、英語版)によってラパ・ヌイ文化が築かれ、モアイ像が多数建設された。



スペイン人による征服とアラウコ戦争





チリの征服者ペドロ・デ・バルディビア。南部の征服中にラウタロによって戦死した。




スペイン人に立ち向かったマプチェ族の英雄ラウタロ。


1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると、南米にもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたのは、ポルトガル人の探検家、フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡に到達した。


1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパが、スペイン人の征服者フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。彼の遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。彼はかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる抵抗もなく成功、1541年に中央部に辿りつき、サンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部ではスペイン人の戦術を取り入れたマプチェ族の軍事指導者・ラウタロが激しく抵抗、スペイン勢は敗れ、バルディビアも1552年にラウタロに捕らえられ戦死した。[9]


その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカン(英語版)コロコロ(英語版)といったマプチェ族の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に亘ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプチェ族の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領(スペイン語版)はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。


このように植民地時代のチリでは先住民との戦いや、海賊の襲撃による断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリでの主産業は、ペルー向けの小麦の生産などとなった。これは入植者に地道で手間のかかる農業を厭わない堅実な気質を育み、徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。


1776年、ボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土は現在の「刀の鞘」のように細長くなった。[10]



独立と保守支配





独立指導者ベルナルド・オイギンス。





ディエゴ・ポルターレス(英語版) 保守派支配の下で1833年憲法を制定し、当時のチリをラテンアメリカでもまれな安定した国家とし、後のチリの強国化の礎を築いた。


16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えたことに対する、スペインでの民衆蜂起が発端となったスペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオーリョの間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命[11][12] の影響により、クリオーヨ達は「開かれた市会」(カピルド・アピエルト)の開催を要求し、同年9月18日に開かれ、政治委員会の設立が決議された(パトリア・ビエハ(英語版))。1811年2月21日の法令で、チリの港を国際貿易に解放することが定められ、スペイン領アメリカの主要都市に置かれていた当時組織アウディアンシアの廃止を決定された。フアン・マルティネス・デ・ロサス(英語版)がサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。さらに独立を志向する自由主義者達は、共和国建設を計画はじめていた。[12][13]


ホセ・ミゲル・カレーラ(英語版)の指導する自治政府は、ペルー副王アバスカル(英語版)が派遣した王党軍とのランカウアの戦い(英語版)(1814年)で敗北したことによって崩壊し、再びスペインの支配を受けた(レコンキスタ)。独立指導者 ベルナルド・オイギンスはラ・プラタ連合州(英語版)(現アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍(英語版)と共にアンデス山脈越え(英語版)を行い、1817年のチャカブコの戦い(英語版)に勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦い(英語版)でスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。


1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進める。まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられたが(チリ内戦(英語版))、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦い(スペイン語版)で保守派が勝利して国政の実権を握った。保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレス(英語版)は1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと同様にチリは安定した体制を築いた。以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。


1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。


1851年に保守党からマヌエル・モント(英語版)が大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。


そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。


経済史として、チリは1857年恐慌で金融危機を初体験し、大統領による統制経済への疑問から1860年銀行法にフリーバンキング制度を採用した。民間資本による自由発券銀行の設立を認めたが、身内金融は特に規制されていなかった。1873年恐慌からの銅・銀・小麦の市場価格低迷は純輸出に慢性的なダメージを与えた。正貨は容赦なく流出して準備率は落ち込んでいった。[14]



太平洋戦争と民主化の進展





イキケの海戦(1879年)。





ホセ・マヌエル・バルマセーダ(英語版)大統領。国有化政策などによりイギリスからの経済的独立を図ったが、親英資本家の反撃により内戦に発展、自殺に追い込まれた。


1878年の大不況はチリという国の形を一変させた。まず金本位制を離脱した。関税は産業保護へ傾きだした。[15]


ボリビアによる、アントファガスタのチリ硝石企業への課税をきっかけに、1879年4月5日、チリはペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した。硝石証券の価格が暴落して、イギリスがそれを買い漁った[16]。イギリスの支援を受けたチリは完全な勝利を収めて、1884年の講和条約によりボリビアからはアントファガスタを中心とするリトラル県(スペイン語版、英語版)を、ペルーからはタラパカ、アタカマ(スペイン語版、英語版)を獲得した。戦中1882年に南部のマプーチェ人が最後の大規模な組織的反乱を起こしているが、鎮圧後はチリ社会の底辺層に組み込まれていった。南部にはドイツをはじめとするヨーロッパから移民が入植した。


太平洋戦争以降ペルー・ボリビア両国との関係は険悪となり、現在も紛争が続いている。アタカマ国境紛争(スペイン語版、英語版)プナ・デ・アタカマ紛争(スペイン語版、英語版)である。


終戦後まもない1884年8月1日に硝石史上初のカルテルが結成された。しかしギブス商会が無理に割当を拡大したり、ジョン・トーマス・ノースが別腹で処女地を開発しようとしたりしたのでカルテルは分解した。[17]
1886年に大統領に就任したホセ・マヌエル・バルマセーダ(英語版)は、ペルー・ボリビアから獲得した鉱山資源を背景にイギリスの経済支配からの脱却を目指して国民主義政策と富国強兵政策を行った。1887年から1899年にかけて硝石ブームが起きて、イギリスから南米向けの資本輸出がピークを迎えた。硝石産業は基幹化してゆくが、脆弱な経営基盤はノースなどの外国資本が参入する隙を与えた[15]。戦時に買い漁った硝石証券で事業進出を果したのである[16]。ノースはベルギーのレオポルド2世とパートナーであった。勢いのあったイギリス資本はしかし、ハーバー・ボッシュ法が知られるにともない撤退していった。1891年に専制的大統領統治に対して議会や海軍が反乱してチリ内戦(英語版)に発展した。ここでホセ大統領は議会軍に敗れて失脚し、自殺した。内戦以降チリでは議会主導の政治が確立された。ポルタレス体制とは対照的な「強い議会、弱い大統領」の時代が1920年代まで続いた。そしてチリの硝石産業は先のハーバー・ボッシュ法により褐炭と競合して輸出量を激減させた。



議会共和制から百日社会主義共和国まで




サンティアゴ・デ・チレの旧国民議会


議会共和制期は不安定ながらも硝石、銅の輸出増を背景に鉱山寡頭支配層が政権を握り続けたが、第一次世界大戦後に硝石価格が下落すると保守支配に抵抗した「国民連合」のアルトゥーロ・アレサンドリ(英語版)が1920年の大統領選挙で勝利した。第一次アレサンドリ政権は議会の過半数を占める保守派の抵抗により、改革に失敗した末に1924年の軍保守派によるクーデターで失脚したが、1925年の軍改革派によるクーデターにより返り咲き、再び政権に就いた。第二次アレサンドリ政権は1925年憲法を制定して大統領権力を強化し、ここに議会共和政期は終焉した。なお、同年にチリ中央銀行が創立された。


1927年に急進党から就任したイバーニェス政権は道路、鉄道、港湾、水利などの公共事業と鉱業を拡大したが、1929年の世界恐慌で大打撃を受けると政府財政は破綻し、1931年に崩壊した。混乱の中、1932年の極短期間に「社会主義共和国」が成立するが、同年中に自由党から保守派の第三次アレサンドリ政権が誕生することで混乱に終止符を打った。


1929年6月、イギリス・ドイツ・ノルウェーとカルテル結成。合成窒素の価格統一、生産・輸出割当を規定して世界生産量のほぼ八割を支配した。1930年8月に更新され、イギリス・ドイツ・ノルウェー・ベルギー・フランスがDEN グループとしてカルテルの中心となった。チリの他、チェコスロバキア、オランダ、イタリア、ポーランドはDEN グループと別個に協定した。カルテルはDEN グループのブロック経済に使われた。非加盟国市場について輸出割当が行われたが、アメリカ合衆国に対する輸出は無制限であった。各国の生産能力は増大するばかりであったので、生産量を能力の七割以下に抑えた加盟者に補償金を出していた。補償金は主にチリが負担したから、見返りにチリは生産量を制限されなかった。1932年にも更新。チリがベルギーなどと割当量と価格について協定。


1936年、日本も合成窒素カルテルに参加した。



人民戦線と人民連合


1938年の選挙によりアレサンドリは敗れ、人民戦線からペドロ・アギーレ・セルダ(英語版)が大統領に就任した。1939年に生産振興公社が設立されたが、1941年にアギーレは辞任した。
第二次世界大戦では中立だったが、1945年4月11日、日本に宣戦布告した。
1946年に急進党からガブリエル・ゴンサレス・ビデラ政権が成立すると、アメリカ合衆国の圧力の下にソ連との断交が行われ、チリ共産党が連立から離脱すると、人民戦線は終焉した。1948年に「民主主義防衛法」が成立すると、以降1958年まで共産党は非合法化された。[18][19]


1952年にポプリスモ政策を掲げた第二次イバーニェス政権が成立すると、選挙法の改正などにより秘密選挙が保障されるようになり、1958年には「民主主義防衛法」も廃止された。1958年にアルトゥーロ・アレサンドリの息子、ホルヘ・アレサンドリ(英語版)が大統領に就任したが、アレサンドリはブルジョワ層に傾いた政策を採り、「進歩のための同盟」の要請により行われた農地改革もほとんど実効性の無いものに止まった。


1964年にキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイ・モンタルバが人民行動戦線のサルバドール・アジェンデを破って大統領に就任した。「自由の中の革命」を唱えたフレイは「銅山のチリ化」や、部分的な農地改革を行った。「銅山のチリ化」、農地改革は共に不徹底なものに終わったが、政治における民衆動員は、1970年の大統領選挙における階級対立の図式を整えることとなった。[20]



アジェンデ政権





サルバドール・アジェンデ博士。チリ人民連合を率いて1970年の選挙に勝利し、世界で初めての民主的に選ばれた社会主義政権の首班となった。1973年9月11日に死亡。


1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると(en)、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。



チリ・クーデターとピノチェト時代





アウグスト・ピノチェト将軍。1973年9月11日のチリ・クーデターを率いてアジェンデ死亡後のチリ大統領となり、世界初の新自由主義経済政策を採用。1990年まで大統領を務めた。



こうした社会的混乱の中で1973年9月11日、アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。


このピノチェト軍政の治安作戦は苛烈を極め、軍内の死の部隊や秘密警察「DINA(英語版)」によるコンドル作戦(汚い戦争の一種)により、人民連合派をはじめとする多くの反体制派の市民が弾圧された。後の政府公式発表によれば約3,000人、人権団体の調査によれば約30,000人のチリ人が作戦によって殺害され、数十万人が各地に建設された強制収容所に送られ、国民の1/10に当たる100万人が国外亡命し、失業率22%、さらには国民の1/4のGNPが「全く」なくなるという異常事態を招きながらも、軍事政権はミルトン・フリードマンらのシカゴ学派に基づく新自由主義経済政策を「教科書通り」に導入した。このことをフリードマン本人は「チリの奇跡」と呼び賞賛したが、実際には、60年代には4.5%を記録していたGDPの平均成長率は、経済政策導入後、1974年から82までの間のGDPの平均成長率は1.5%まで落ち込んだ。この数値は、同時代のラテンアメリカの平均成長率4.3%よりも低い。また、1970年から80年におけるチリの人口あたりGDP成長率は8%だが、これもラテンアメリカ全体の人口あたりのGDP成長率40%よりも低かった。また、1973年には4.3%であった失業率が10年間で22%に上昇。貧富の差は急激に拡大し、貧困率はアジェンデ時代の倍の40%に達した。そのため、政権末期はシカゴ学派を政権から追い、ケインズ政策を導入し軌道修正を図った。その結果、貧困層の収入は3割増加し、また、貧困層の割合はアジェンデ時代の45%から30%にまで低下した。



しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙(en)で敗北すると、1989年12月に行われた総選挙(en)で、反ピノチェト派の政党連合コンセルタシオン・デモクラシアを構成する中道のキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが、ピノチェト派の候補に僅差で勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に移管することになった。



民政移管以降




チリ初の女性大統領ミシェル・バチェレ。


民政移管後、新政権は、ピノチェト将軍ら軍政期に人権侵害に携わった軍人の処遇などの複雑な問題を抱えながらスタートし、ピノチェトは陸軍最高司令官として留任することになった。


1990年に就任したエイルウィンの政策は、基本的には軍政期からの新自由主義を継承するものであったが、市場原理主義の修正を図り、軍政期に拡大した所得格差や貧困問題解決への取り組みも進んだ。


1994年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するキリスト教民主党から、エドゥアルド・フレイ・ルイスタグレが大統領に就任した(en)。このフレイ時代の1998年2月に、ピノチェト陸軍総司令官が退役したが、ピノチェトには終身上院議員の議席が確保された。しかし、同年10月、イギリスに滞在していたピノチェトは、軍政期に在チリスペイン人へ人権侵害を行ったことを理由としたスペインの要請により逮捕され、外交問題となった。


2000年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、リカルド・ラゴスが大統領に就任し(チリ社会党からの大統領は、アジェンデ以来のこと)、チリ経済の成長が進んだ。1990年から2000年までのGDP成長率は平均約6.6%であり、軍政期(1973年から1990年)の平均の3.70%を上回った。[21]


2006年には、コンセルタシオン・デモクラシアを構成するチリ社会党から、同国初の女性大統領、ミシェル・バチェレが就任した。バチェレ政権は、貧困対策で成果を上げ、中南米諸国の中では高い経済成長を維持した[22]


このように、チリでは、民政移管後に、キリスト教民主党、社会党など4党を中核とするコンセルタシオン・デモクラシアが、4期連続・20年にわたって政権を担ってきた。国民がコンセルタシオン・デモクラシアに期待した最大の要因は、軍政の傷痕を克服することであった。歴代のコンセルタシオン・デモクラシアの政権は、新自由主義の歪みを修正する試みに挑戦してきた。またバチェレ政権は、非民主的な選挙制度・教育制度の改革・非正規雇用の削減・貧困層向けの社会政策にも挑戦してきた。しかし、国会での与野党の勢力が拮抗していることもあって、抜本的な改革には至らなかった。一方、貧困層支援を強化したことに対する中産階級層から不満や批判が出るようになった。


こうしたなか、2009年12月13日、大統領選挙が実施された。1位は右派野党連合チリのための同盟のセバスティアン・ピニェーラ元上院議員で得票率44%、2位は与党連合コンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイで得票率29.6%、3位は与党を離脱した無所属のエンリケス候補で得票率20.1%、4位は共産党などで結成した左翼連合のアラテ候補で得票率6.2%であり、過半数の得票を得た者がいなかったため、1位と2位との決選投票が、2010年1月17日に行われた。この結果、チリのための同盟のセバスティアン・ピニェラが51.6%を獲得し初当選した。与党連合のコンセルタシオン・デモクラシアのエドゥアルド・フレイ元大統領は48.4%であった[23][24]


実業家出身のビニェラは、経済成長を目的に民間部門の活用をより重視する企業寄り、市場寄りの政策をとった。ただし、彼は軍政を敷いたピノチェトの信任を問う国民投票では、退陣運動に参加した経験の持ち主でもあって、コンセルタシオン・デモクラシアが進めた政策を全面否定はしておらず、貧困層向けの社会計画の継続を公約するなど、国民本位の政策を実施しようとした[25][26]


2013年12月15日の大統領選挙では、コンセルタシオン・デモクラシアから改まった新多数派を構成するチリ社会党の前大統領のミシェル・バチェレ氏が勝利し、2014年より第二次バチェレ政権が誕生した。



政治





チリ大統領府、モネーダ宮殿。





バルパライソの国民議会。


政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である[27]
2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北した後、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。


立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は38議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までその他に国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。


司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は、憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。


チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30ヶ国以内に過去10年間連続してランク付けされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル (TI) による世界腐敗認識指数では26位[28] とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では、腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[29]



国際関係





チリと外交関係を有する諸国の一覧図。


独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー・ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。


19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期に海軍はイギリスの、法や教育はフランスの、[30][31][32] 陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。


1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2007年からチリは他の4カ国と共にOECDの公式加盟国になることを打診している。


軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアを巡ってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張は未だに続いている。


なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の領有権(チリ領南極)を主張している。


2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)[33]と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8カ国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる。[34] 会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は、最終宣言を発表した。



軍事





チリ陸軍の装備するレオパルド戦車





チリ海軍のフリゲート艦アルミランテ・ブランコ・エンカラダ (FF-15)。


チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍の他に憲兵(カラビネーロス)が存在し、[35][36] 規模は40,000人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで二番目に大きな軍事予算を組んでいる。


伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国よりは政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、この原則は1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。[37]その後軍政期に軍はコンドル作戦や、「汚い戦争」などを遂行し、自国民や、近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。[38]



陸軍


チリ陸軍は兵員45,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。



海軍


チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員23,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、戦闘艦艇は内8隻のフリゲート艦のみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒に当たる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。



空軍


チリ空軍は兵員12,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。



カラビネーロス


1973年9月の軍事クーデター後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人[39] の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。



地方行政区分



チリは、州監督官 (Intendente) を長とする15の州 (Region) に分けられる。州はさらに幾つかの県 (Provincia) に分割され、それぞれに県知事 (Gobernador provincial) が置かれる。県はさらに市町村 (Comunas) に分けられ、市(町、村)長がいる。[40] 監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。




チリの地図


各州は名前とローマ数字により識別される。ローマ数字は北から南の順に割り当てられている。一般的には州名よりローマ数字の方が用いられている。唯一の例外は首都サンティアゴが位置している州で、首都州 (Región Metropolitana) を意味するRMの二文字で表されている。2006年にロス・リオス州 (XIV) とアリカ・イ・パリナコータ州 (XV) が新設された。







チリの15州




































































































Key 日本語表記 スペイン語表記 州都
XV

アリカ・イ・パリナコータ州の旗 アリカ・イ・パリナコータ州
Región de Arica y Parinacota

アリカ
I

タラパカ州の旗 タラパカ州
Región de Tarapacá

イキケ
II

アントファガスタ州の旗 アントファガスタ州
Región de Antofagasta

アントファガスタ
III

アタカマ州の旗 アタカマ州
Región de Atacama

コピアポ
IV

コキンボ州の旗 コキンボ州
Región de Coquimbo

ラ・セレナ
V

バルパライソ州の旗 バルパライソ州
Región de Valparaíso

バルパライソ
VI

リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州の旗 リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州
Región del Libertador General Bernardo O'Higgins

ランカグア
VII

マウレ州の旗 マウレ州
Región del Maule

タルカ
VIII

ビオビオ州の旗 ビオビオ州
Región del Biobío

コンセプシオン
IX

ラ・アラウカニア州の旗 ラ・アラウカニア州
Región de la Araucanía

テムコ
XIV

ロス・リオス州の旗 ロス・リオス州
Región de Los Ríos

バルディビア
X

ロス・ラゴス州の旗 ロス・ラゴス州
Región de Los Lagos

プエルト・モント
XI

アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州の旗 アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州
Región Aisén del General Carlos Ibáñez del Campo

コイアイケ
XII

マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州の旗 マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州
Región de Magallanes y de la Antártica Chilena

プンタ・アレーナス
RM

首都州(チリ)の旗 首都州
Región Metropolitana de Santiago

サンティアゴ・デ・チレ



主要都市



主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。



地理




チリの地図。




地形図





パリナコータ火山。




チリ富士と呼ばれる南部のオソルノ山





トーレス・デル・パイネ国立公園。





ビーグル水道の氷河。




南部の氷河。



西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,630kmに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸等の環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。


北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方kmの領有権を主張するが南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700kmほど離れてラパ・ヌイ (イースター島) が存在する。
最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6893m。
チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。



気候


気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。


チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている。寒流であるペルー海流の影響により、北部でも余り気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。



時間帯


チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。




治安


チリは中南米の国の中では比較的治安が良い国とされてきたが、近年は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる[41]



経済






サンティアゴ証券取引所


2013年のチリのGDPは2,770億ドルである[1]。世界38位であり、日本の神奈川県よりやや小さい経済規模である[42]。同年の一人当たりのGDPは15,776ドルであり、ラテンアメリカ諸国の中では上位に位置する。





工業国




首都サンティアゴ・デ・チレの景観。サンティアゴ・デ・チレはチリ最大の都市であり、南米有数の世界都市である。


アジア太平洋経済協力 (APEC) に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。


経済はほとんど輸出により成り立っている。[43]輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。[44]


チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端を行く通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7〜12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。近年、EU・アメリカ、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結び、さらにニュージーランドとシンガポールとも同様な協定を結ぶ交渉が進められている。




一次産業




色と面積で示したチリの輸出品目(2009年)


農業については、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。


漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の1/3、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。


林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。


鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。


金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。例えば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。



観光





アタカマ塩原


近年観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイ等の独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。[45]


観光は、2005年にこの部門は国のGDPの 1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した。[46]


観光客が本土へのすべての訪問の1.8%に達したときのWTOによると、[47]チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという 。[48]その年、国は1636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった。[49]しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した。[50]



鉱業





硝石労働者。




チュキカマタ、露天掘りで世界最大の鉱山。


チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった。[51][52]北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。[53][54]


鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。とくにタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。


主な製品は銅である。世界の36%を供給する世界最大の生産国である、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。


鉄、モリブデン、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。
ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。



農業と畜産


農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。





ウアッソとトウモロコシ畑、1940年。


チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 - 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。



水産


近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。



インフラストラクチャ



動力


チリでは、再生可能資源があまり多くないため、化石エネルギーに依存している。国際情勢と化石燃料価格に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。




ビオビオ州のラルコー水力発電所。


また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガスターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。


チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電によって、次に水力発電によって生成され、60280ギガワット時であった推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。


チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で二番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。


現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。



電気通信




アンデスを望むエンテルタワー


チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した[55]


2012年には327.6万の固定電話回線と2413万携帯電話加入者がいる[56][57]。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった[58]。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人当たりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった。[59]この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。


2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる[60]


1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された[61][62]


世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた[63]。2013年には総人口の66.5パーセントのインターネット普及率であり[64][65]。ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。


2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカで最も大きかった。[66]





交通





アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港




サンティアゴ地下鉄



航空


フラッグ・キャリアで、ワンワールドの主要構成会社の1つでもあるラン航空が、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。


チリそしてサンティアゴの表玄関となる空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港(Arturo Merino Benítez International Airport)で、ラン航空のハブ空港であり、近隣諸国やヨーロッパ、北アメリカなどの航空会社も乗り入れている。



鉄道


チリ国鉄が、サンティアゴ・デ・チレを中心にチリ中部のコンセプシオン(Concepción)などへ走っている他、ペルーやアルゼンチンなど近隣諸国との間の国際列車もある。中南米各国では1990年代の民営化によりほとんどの路線は旅客サービスを終えたが、チリでは電化や新車両投入など近代化への投資などを行っており、中南米の中では鉄道が整備されている国である。


サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(Metrotrén)と言われる近郊電車がサンフェルナンド(英語版)へ向けて走っている他、サンティアゴにはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。


また、バルパライソとビニャ・デル・マールには地下鉄が走っているほか、コンセプシオンにはビオトレンという近郊電車が運行されている。




自動車


サンティアゴ近郊には高速道路網がある他、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都のブエノスアイレスや、ペルーの首都のリマとの間を結んでいる。



社会


独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは7,374,115人、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。



人口





1835年から2050年までのチリの人口グラフ(INE)。




2015年のチリ人口ピラミッド





バルパライソ港付近の住宅街。




チリのチーム


チリの人口は約1,750万人程であり[67]、1990年代から出生率の低下と共に人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、内40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。


チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり[68][69]、人口の52,7%[70] が純粋な白人であり、44,1%が白人系メスティーソとなっている[71]


その他インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、極めて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫として アフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。


ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジル程の規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人が極少数存在するのみである。



言語



チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。その他にはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。



宗教






チロエの教会群は、世界の文化遺産です。


チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%程となっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。[72]


コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。



保健


平均寿命は78.8歳と先進国並み[73]。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である[73]



教育





チリの学生子供


チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。チリは、教育、幼稚園、小・中と最初の3つは要求されるの表裏面の4つのレベルがあります。就学前の4198、12114プライマリとセカンダリ162と上部などの技術訓練センター、専門の研究機関、大学、軍の高等教育機関:2013年に国が16474教育機関を持っていた。補助金、民間教育の1897949(混合)265044教育245906未就学児、3537087プライマリとセカンダリ1325737市町村教育(公共):その同じ年、国の登録は4967798学生に達したおよび1184805高い - 特に(プライベート)と48537の企業、委託管理を支払った。


19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。


識字率は約96.4%[74] であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカで最も高い部類に入る。


代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。



文化






ガブリエラ・ミストラル。





パブロ・ネルーダ。


スペイン人による征服の以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する。[75][76][77][78][79]



食文化





チョッリヤナ


チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。


代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。[80]


チリはワインの大生産国として知られ、チリワインは高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。



文学



チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。[81]これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、[82]ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。


小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。[83][84][85]



音楽



チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、[86]その他に北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。


1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害、拷問、追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。


2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。


ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達を辿ることになった。その後80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、[87]ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド Los Jaivas は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動をしている。[88]



映画



チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』、『サンディーノ』のミゲル・リティンや『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。



世界遺産



チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。[89][90]




祝祭日



































































































日付
日本語表記
現地語表記
備考

1月1日
新年(元旦)
Año Nuevo


3月〜4月

聖金曜日
Viernes Santo
移動祝日、復活祭前の金曜日

3月〜4月

聖土曜日
Sábado Santo
移動祝日、復活祭前の土曜日

3月〜4月

復活祭
Pascua de Resurrección
移動祝日

5月1日

メーデー
Día del Trabajador


5月21日

海軍記念日
Combate Naval de Iquique


6月

聖体の祭日
Corpus Christi
移動祝日

6月29日
教皇ヨハネ・パウロ2世表敬記念日
San Pedro y San Pablo


8月15日

聖母被昇天祭
Asunción de la Virgen


9月18日

独立記念日
Primera Junta Nacional de Gobierno


9月19日

陸軍記念日
Día de las Glorias del Ejército


10月12日
アメリカ大陸発見の日(コロンの日)
Descubrimiento de América


11月1日

諸聖人の日
Día de todos los Santos


12月8日

無原罪の聖母
Inmaculada Concepción


12月25日

クリスマス
Navidad, Pascua



スポーツ



チリでも他のラテンアメリカ諸国と同じようにサッカーが大変盛んである。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なプロクラブとしては、CSDコロコロ、CDコブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。1962年にチリで開催されたワールドカップ(以下、W杯)ではチリ代表は3位に入賞した。また、1998年のW杯フランス大会に出場した際には、4チーム制による1次リーグを3引き分け(0勝:勝ち点3)で突破し決勝トーナメント(ベスト16)に進出すると言う珍しい記録を持つ[91]。現行のルールにおいて、8グループ上位2チーム勝ち上がりの1998年大会以降では、初であり現在まで唯一のケースである[92][93]


テニスも盛んであり、2004年のアテネオリンピックでは、チリのニコラス・マスーとフェルナンド・ゴンサレスがオリンピック史上初となる金メダルを男子シングルスと男子ダブルスで獲得し、首都のサンティアゴ・デ・チレをはじめチリ国内では喜びのあまり異様な盛り上がりを見せた。


国技はロデオ(チリのロデオ)である。



科学技術


多数の科学刊行物によると、チリは2011年現在、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。





パラナル天文台


天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。



国の象徴





コピウエの花。


チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。


国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。



著名な出身者






脚註


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  82. ^ “Latin American Herald Tribune – Isabel Allende Named to Council of Cervantes Institute”. Laht.com. 2010年11月14日閲覧。


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  90. ^ “チリ - 世界遺産リストに刻まプロパティ”. ユネスコ. 2015年10月31日閲覧。


  91. ^ このケースは、チリ以外の3チームに 1つの引き分け(勝ち点1)が必ず入るため、その3チームが1勝をあげた時点(例:3チームとも1勝1分け1敗=勝ち点4、だった場合)でリーグ最下位の4位、チリ以外に 1分け2敗(勝ち点1)のチームが出た場合でも 残り2チームが1勝以上してしまう(勝ち点4以上になる)ためにリーグ3位となり勝ち上がれない。自力での決勝トーナメント進出が難しい事はもとより、他力本願でも勝敗の星取表(○と●と△)の関係で、全通りの中で2分け1敗(勝ち点2)のチームが2つ出ると言う条件でしか可能性が無かった。


  92. ^ 6リーグ上位2チーム自動的勝ち上がり+3位チーム同士の成績上位4チームが勝ち上がる方式では、W杯イタリア大会で同じリーグ内で 3引き分けのチームが2つ出て、共に決勝トーナメントに進出したアイルランドとオランダの例がある(総得点も同じだったため、くじ引きによりアイルランドがグループ2位、オランダがグループ3位となった)。イタリア大会より以前は、勝利での勝ち点が2点だったり、大会によっては2次リーグが有ったりと、ルールの改変前である。


  93. ^ また、2010年のW杯南アフリカ大会でもニュージーランドが、このチリ以来2度目の3引き分けを記録しているがグループリーグで敗退している。そのため、勝ち上がった唯一の記録は破られていない。




参考文献



歴史



  • ハイメ・エイサギルレ/山本雅俊訳 『チリの歴史──世界最長の国を歩んだ人びと』 新評論、東京、1998年6月

  • エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳 『収奪された大地──ラテンアメリカ五百年』 新評論、東京、1986年9月

  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄 『ラテン・アメリカ現代史III』 山川出版社〈世界現代史34〉、東京、1985年1月。ISBN 4-634-42280-8。

  • 増田義郎編 『ラテンアメリカ史II』 山川出版社〈新版世界各国史26〉、東京、2000年7月。ISBN 4-634-41560-7。



政治


  • 後藤政子 『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社、東京、1993年4月。ISBN 4-7887-9308-3。


地理



  • 下中彌三郎編 『ラテンアメリカ』 平凡社〈世界文化地理体系24〉、東京、1954年

  • P.E.ジェームズ/山本正三、菅野峰明訳 『ラテンアメリカII』 二宮書店、1979年

  • 野沢敬編 『ラテンアメリカ』 朝日新聞社〈朝日百科世界の地理12〉、東京、1986年。ISBN 4-02-380006-6。

  • 福井英一郎編 『ラテンアメリカII』 朝倉書店〈世界地理15〉、東京、1978年



経済



  • 岡本哲史 『衰退のレギュラシオン──チリ経済の開発と衰退化1830-1914年』 新評論、東京、2000年12月


  • 岡本哲史「チリ経済の「奇跡」を再検証する 新自由主義改革の虚像と実像」『ラテン・アメリカは警告する──「構造改革」日本の未来』内橋克人、佐野誠編、新評論〈「失われた10年」を超えて──ラテン・アメリカの教訓第1巻〉、東京、2005年4月。



社会


  • 中川文雄、三田千代子編 『ラテン・アメリカ人と社会』 新評論〈ラテンアメリカ・シリーズ4〉、東京、1995年10月。ISBN 4-7948-0272-2。


紀行


  • 伊藤千尋 『燃える中南米──特派員報告』 岩波書店〈岩波新書〉、東京、1988年5月。ISBN 4-00-430023-1。


関連項目







  • チリ関係記事の一覧

  • ウアッソ

  • チリ地震 (曖昧さ回避)

  • 日本とチリの関係



外部リンク














政府



  • チリ共和国政府 (スペイン語)


  • 在日チリ大使館 (日本語)


日本政府



  • 日本外務省 - チリ (日本語)


  • 在チリ日本国大使館 (日本語)


観光



  • チリ政府観光局 (日本語)


  • ウィキボヤージュには、チリ(スペイン語)に関する旅行情報があります。


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その他



  • JETRO - チリ (日本語)


  • チリ - DMOZ (英語)


  • "Chile". The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語)


  • チリのウィキメディア地図 (英語)










座標: 南緯33度26分 西経70度40分 / 南緯33.433度 西経70.667度 / -33.433; -70.667







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