いかだ
いかだ(筏・桴)は、木材・竹など浮力を持つ部材をつなぎ合わせ、蔓などで結びつけた、水上構造物である。
航行や養殖の目的に用いられており、用途に応じて船舶または浮きの集合体とみなされる。
目次
1 特徴
2 素材
3 利用
3.1 材木の運搬
3.2 一時的な定住目的
3.3 行軍
3.4 観光・レジャー
3.5 海用イカダ
4 著名ないかだ
5 いかだに由来する命名
6 文化
7 脚注
8 関連項目
特徴
一般的な構造の船舶は、全体の構造として水を押しのけた空間を確保しており、その量(トン数、排水量を参照)と等しい浮力を得たうえで運用されている。その一方、いかだは構造的に浮力を生みだすのではなく、いかだを構成する個々の部材が生む浮力にのみ依存して運用されている。そのため、いかだは積載量において劣る。しかし平面構造を取り得るなど、構造上の制約が少ないという利点を持っている。
木造船と木製いかだを例にとると、両者は木材という水に浮く同じ部材を持つものの、利用する浮力の生みだし方が全く異なる。木造船は全体の構造として水を排した空間を作り、それが生み出す浮力を利用し、部材の木材自体が持つ浮力以上の貨物の積載量を以て運用されている。そのため浸水してその空間が失われた場合、(貨物その他を捨てない限り)沈没してしまう。一方で、木製いかだは木材自体が持つ浮力にのみ依存して運用されており、そもそも個々の木材の浮きとしての能力以上の貨物を積むことができず、浸水による沈没という現象も起きない。
素材
伝統的には、木・竹・ヨシなどの植物をロープで縛り合わせて作られた簡易的で小型のものが多い。
- 木
- 例として、バルサ(世界一軽い木材)があり、バルサという語自体がスペイン語で「いかだ」を意味する。古代ペルー人はこの軽材で筏を作り、ポリネシアの島々まで遠距離航海を行ったとされる(筏のような簡素的舟でも長距離航行は可能だった)[1]。日本では、『万葉集』巻第一・50番において、いかだを真木=ヒノキやスギで作ったと記す歌が見られる。
- 竹
- 日本では『日本書紀』孝徳紀の白雉4年7月(653年)に、薩摩半島沖で難破した遣唐使船の5人の生存者が付近の島に漂着した際、その島に生えていた竹を採って筏(いかだ)を製作して帰還を果たしたという記録がある。このとき筏を制作した門部金(かどべのかね)はこの功績により褒美を賜ったという。
- 皮
東アジアから南アジアの河川では、羊皮筏子やアレキサンダー・ボートといった、動物の皮に空気を入れた袋を浮力材としたいかだが今日でも渡し船などに利用されている。過去にはこの種のいかだは救命ボートとしてインド洋の交易船に積まれていた[2]。
『万川集海』には、「甕筏」といって、槍などの長柄で骨組みを組み、その下に甕(焼き物の器)を取り付け、浮力とする(図面には、4つの甕を付けている)、即席の複合筏の記述があり、「甕の他、釜、桶、杵、臼など用いても良く、蒲筏・葛籠筏などがある」と記し、日常の民具から筏を製作する工夫があったことがわかる。
現在ではさらに、プラスチック製の浮きを縛りつけたものが広く養殖に用いられているほか、鋼鉄製の大型の浮きを持ち、河川で車や人を対岸に渡すことのできるものやメガフロートのような巨大なものまである。
利用
材木の運搬
丸太を数本、平行に並べてつないだものが最も典型的な、いかだのイメージである。木材そのものの浮力に頼った構造であるため、積載運搬能力や耐波性は低いが、いかだは元来、簡易な形式の舟として用いられるのみならず、そもそもいかだの部材としての木材を河川において運搬するための手段としても用いられたものである。例として、墨俣城(一夜城)の築城説話がある。史実かは別として、即席で要所を築くために木材をいかだとして川に流す物語が知られている。
ある程度の流量のある川沿いであれば林道などが未整備な箇所においても木材の運搬ができたため、日本でも地域によっては昭和30年代まで用いられた。しかし、流域で貯木していた木材が洪水時等に下流へ被害を及ぼしたり、水力発電や治水などを目的とするダムの建設や林道等の整備が進んだりすることにより木材運搬の手段としては使われなくなった。やがて、船舶工学の発展にともない、舟としてのいかだも先進国では実用に供されることはほとんどなくなった。
大河川や海洋では、北洋材の生産現場で開発が進んだ。樺太では、大正年間から豊富な森林資源を内地や島内の製紙工場へ輸送するために、海洋筏による輸送が試行錯誤を続けながら行われた。こうした技術は、第二次世界大戦に入ると船腹が不足して通常の貨物輸送が行われなくなった内地でも応用されるようになり、海軍が日本通運に命じて室蘭港-東京港間(カナダ木材が下請け)、高知港-大阪港間(富士商会が下請け)、新宮港-名古屋港(王子製紙が下請け)で海洋筏による輸送が行われた[3]。
戦後も、ソビエト連邦の手で大規模な海洋筏の研究が行われた。1951年には、沿海州のアムール河河口付近から北海道などに向けて海洋筏により北洋材の運搬が行われた。ソビエト連邦側の港には、編筏機が設置されていた[4]。運搬中の流出や損耗もあり、やがて船舶による運搬に転換された。
一時的な定住目的
部分部分に脚色された物語であるが、11世紀末前後に成立した『大鏡』には、藤原純友(10世紀中頃)が西国の海で大筏を数え切れぬほど集め、その筏の上に土を盛って植木を生やし、たくさんの田を作って、定住して、討伐軍では、なまじびくともしそうにないほど強大にさせたという記述がある(筏による一種の「海上陣地」の形成話)。物語としてだが、想定としての定住目的が、この時代から見られる。
『大鏡』では、木を植えられるほどの巨大な筏を土台としているが、田畑を形成する年月を考慮しても現実的かは疑わしく、また、後世の作品でも「筏の上に田を作る」アイディアは見られ、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作中でも描かれているが、「海水の塩(潮風)によって作物は全滅する」結果となっており、端的ではあるが、筏の上での耕作が不適切(潮風が強くて不向き)であると演出している。
行軍
戦術・戦略の目的上、行軍で河川を渡らなければならない場合、筏を用いることがある。例として、源頼義は前九年の役において盾を筏としたと記され(『寛永諸家系図伝』第一、続群書類従完成会)、また承久の乱では、東軍が宇治川を渡る際、初めは馬をそのまま用いたが、のちに民家を壊した木材で筏を組んだとされる(山本幸司 『日本の歴史09 頼朝の天下草創』 講談社 2001年 p.197)。また、馬を並べてつなげ、川を渡る行為を日本では「馬筏」と呼ぶ(『広辞苑』)。
観光・レジャー
- いかだレース
- 近年、河川・湖沼・海岸などさまざまな場所において、参加者の創意工夫によって作られたいかだによるいかだレースのイベントが各地で行われている。
- 急流下り
急流下りでは絶叫マシン的なスリル感を演出するために、いかだが用いられることがある。
海用イカダ
古代のポリネシア・ミクロネシア人が南太平洋一円を活動する際に、アウトリガーカヌーやコンティキ号のようないかだを使っていたと考えられている。
ブラジルの漁民はジャンガダと呼ばれる三角帆を装備したいかだで漁をしている[5]。いかだが横転したり横に流されないよう、海上では船底にダガーボードという水中翼を差し込む。猟師は航走中海に投げ出されないようにデッキに体を固定して操船する。
著名ないかだ
- コンティキ号
- メデューズ号の筏
いかだに由来する命名
- 焼き鳥
焼き鳥屋のメニューのひとつで、ネギだけをくしに刺して焼いたものをいかだと呼ぶ。形状がいかだに似ていることに由来する。適宜塩をふって食べる。- 生物の和名
- その形が似ていることからついた名にイカダモ(セネデスムス)がある。葉を筏に見立て、花や実が葉に乗っているように見えるところから名がついたのがハナイカダとナギイカダ、それにイカダカズラ(ブーゲンビレア)である。
文化
家紋の一つとして、筏紋・花筏紋がみられ、例として、「丸に筏紋」がある(『日本家紋総覧 コンパクト版』 新人物往来社 p.105)。
脚注
^ 『雑学 実用知識 特装版』 三省堂企画編修部 編 第6刷1991年(1988年) p.311.
^ 三杉隆敏、榊原昭二 編著『海のシルク・ロード事典』新潮選書、1988年。ISBN 4106003414、p.109.
^ 樺太林業史編集会 『樺太林業史』 p312-318 1960年 農林出版株式会社
^ 上野金太郎編『北洋材十年史』1970年 全国北洋材協同組合連合会 p.34 記録編
^ エリック・ケントリー『船の百科』あすなろ書房、〈「知」のビジュアル百科〉、2008年。ISBN 9784751524534、p.8.
関連項目
- ラフト
- ハナイカダ
- 木場
- 網場
- 川下り
- 筏釣り
- 筏師
- 艀