風と共に去りぬ (映画)













































































風と共に去りぬ

Gone with the Wind

Poster - Gone With the Wind 01.jpg
1939年初公開時のポスター

監督
ヴィクター・フレミング
脚本
シドニー・ハワード(英語版)
原作
マーガレット・ミッチェル
製作
デヴィッド・O・セルズニック
出演者
ヴィヴィアン・リー
クラーク・ゲーブル
音楽
マックス・スタイナー
撮影
アーネスト・ホーラー(英語版)
レイ・レナハン(英語版)
編集
ハル・C・カーン
ジェームズ・E・ニューカム
製作会社
セルズニック・インターナショナル(英語版)
配給
ロウズ(MGM)
公開
アメリカ合衆国の旗 1939年12月15日
日本の旗 1952年9月4日
上映時間
222分
製作国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語
英語
製作費
$3,900,000
興行収入
$389,000,000
配給収入
1億3336万円(1952年公開時)[1]日本の旗
1億9326万円(1961年リバイバル公開時)[2]日本の旗
3億1771万円(1967年リバイバル公開時)[3]日本の旗
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予告編


風と共に去りぬ』(かぜとともにさりぬ、原題: Gone with the Wind)は、1939年に製作されたアメリカ映画。カラー製作、スタンダードサイズ。監督はヴィクター・フレミング。主演はヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル。日本での初公開は戦後の1952年。




目次






  • 1 概要


  • 2 題名の由来


  • 3 キャスト


  • 4 スタッフ


  • 5 受賞歴


  • 6 アメリカ合衆国での公開


  • 7 日本での公開


    • 7.1 日本でのテレビ放映




  • 8 エピソード


  • 9 版権とDVD


  • 10 脚注


  • 11 外部リンク





概要


1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』が世界的ベストセラーとなり、早くも出版の翌月に映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが映画化権を獲得し、その後3年の歳月と当時の金額で390万ドルの製作費をかけて全編で3時間42分という大長編映画を完成させ、1939年12月15日にワールドプレミエとして初公開して空前の大ヒットとなった映画である。


またメトロ・ゴールドウィン・メイヤーとセルズニック・プロダクションが製作したテクニカラー方式による叙事詩的大作ドラマであり、製作費や宣伝費に大金を注ぎ込む嚆矢となった作品でもある。


1940年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)、助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優初)、脚色賞ほか特別賞を含め9部門を受賞した。



題名の由来


アーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラ」からとったもので、映画の冒頭のメインタイトルでスタッフ・キャスト等のテロップの後に、ディキシーの調べと共にこのダウスンの詩の一句が出てくる。


There was a land of Cavaliers and Cotton Fields called the Old South.


Here in this pretty world, Gallantry took its last bow.


Here was the last ever to be seen of Knights and their Ladies Fair, of Master and of Slave.


Look for it only in books, for it is no more than a dream remembered,


a Civilization gone with the wind...


・・・・かつて在りし騎士道と綿畑の地 人はその地を古き良き南部と呼んだ その麗しい世界で最後に花を咲かせた  勇気ある騎士達と艶やかな淑女達  奴隷を従えた主人たち  今は歴史に記されるだけの儚い思い出となった 大いなる文化は 風と共に去りぬ・・・・


1つの文化が戦争という烈風と共に消え去ったことを意味している。南北戦争で南部の貴族的文化社会が打ち砕かれて、その敗戦の荒廃と混乱の中から新しい再建が進められて、南部の大地が生んだスカーレット・オハラがどのように生き抜いたかを描いており、そしてそれは彼女の激しく燃えた恋の物語でもある。



キャスト


デヴィッド・O・セルズニックは映画化権を獲得した1936年7月以降すぐにスカーレットを演じる女優探しを始めた。以後2年4ヶ月の間に面接した候補者は1,400人で、スクリーンテストを受けた者は90人。その中にはポーレット・ゴダード、ベティ・デイヴィス、キャサリン・ヘプバーン、マーガレット・サラヴァン、ノーマ・シアラー、ラナ・ターナー、フランシス・デイ(en)、ジョーン・フォンテイン、スーザン・ヘイワードなどがいた。そしてポーレット・ゴダードが一時期有力とも目されたが、チャーリー・チャップリンと未婚のまま同居していたこともあって採用されず、錚々たるスター達がカメラの前でテストを受けたがついにセルズニックのイメージに合う女優はいなかった。


1938年12月に主演女優未定のまま撮影に入り、いきなり映画の中盤の見せ場であったアトランタ市街の炎上シーンから撮影を始めたが、その時にたまたまセルズニックの兄がロケ地に見学として連れてきた英国の舞台女優ヴィヴィアン・リーがアトランタ炎上の撮影場面を見つめている姿を見て「スカーレット・オハラがここにいる」とセルズニックが叫び、すぐにカメラテストを受けて1回で即主演女優に決まった。


しかし、撮影途中でヴィヴィアン・リーは脚本を読んで行くうちに「こんなメス犬のような役は自分にはできない」といってスカーレット役を一旦降板するにいたった。しかしセルズニックの入念な説得により、ヴィヴィアンはもう一度スカーレット役を演じることを決め、撮影再開は前半終了部のスカーレットが農園のニンジンを生でかじるシーンから始まった。


また映画製作前の一大キャンペーンとして、全米各地にてオーディションが行われて、映画の舞台であるアトランタで選ばれたイヴリン・キースは、スカーレットの妹・スエレン役にキャスティングされた。


相手役のレット・バトラーは当時すでに大スターでアカデミー賞主演男優賞を受賞していたクラーク・ゲーブルで、彼の代表作となった。















































































































































































































































役名 俳優 日本語吹替
ワーナー版 PDDVD版 日本テレビ旧録版 日本テレビ新録版 テレビ東京版 機内版
スカーレット・オハラ ヴィヴィアン・リー 日野由利加 栗原小巻 戸田恵子 田中美佐子 鈴木弘子
レット・バトラー クラーク・ゲーブル 大塚明夫 内田直哉 近藤洋介 江守徹 渡辺謙 仲村秀生
アシュレー・ウィルクス レスリー・ハワード 原康義 村治学 滝田裕介 荻島真一 井上倫宏 納谷六朗
メラニー・ハミルトン オリヴィア・デ・ハヴィランド 平淑恵 堀江真理子 谷育子 香野百合子 岡本茉利 沢田敏子
ジェラルド・オハラ トーマス・ミッチェル 今西正男 島香裕 神田隆 織本順吉 山野史人 池田勝
エレン・オハラ バーバラ・オニール 谷育子 宇乃音亜季 中西妙子 富田恵子 吉野佳子
マミー ハティ・マクダニエル 青木和代 桂木黎奈 中村たつ 神保共子 麻生美代子
スエレン・オハラ イヴリン・キース 田中敦子 執行佐智子 勝生真沙子   芝夏美
キャリーン・オハラ アン・ラザフォード 佐々木優子 恒松あゆみ 久住真理子 岡本茉利 さとうあい
ミード医師 ハリー・ダベンボート 大木民夫 横森久 久米明 石井敏郎
ピティパットおばさん ローラ・ホープ・クルーズ 斉藤昌 村上あかね 中村紀子子 杉田郁子 山本与志恵 秋元千賀子
フランク・ケネディ キャロル・ナイ 福田信昭 原田清人 中田浩二 小山力也 広瀬正志
ベル・ワトリング オナ・マンスン 高畑淳子 小沢寿美恵 駒塚由衣 横尾まり
ボニー・バトラー カミー・キング
ナレーター - 有本欽隆 鈴木瑞穂 横内正 若山弦蔵 麻生美代子
日本語版制作スタッフ
演出 佐藤敏夫 羽田野千賀子 小林守夫 佐藤敏夫 左近允洋
翻訳 木原たけし 原仁美 木原たけし 額田やえ子
調整 熊倉亨 山田明寛 前田仁信 小野敦志 高久孝雄
録音 鈴木喜好嗣 坂井真一
効果 芦田公雄
熊耳勉
リレーション
編集 オムニバス・ジャパン
選曲 重秀彦 東上別符精
プロデューサー 小川政弘
貴島久祐子
(ワーナー・ホーム・ビデオ)
椿淳 深澤幹彦
渡邉一仁

制作 ワーナー・ホーム・ビデオ
東北新社
ミックエンターテイメント 東北新社 テレビ東京
東北新社
電通


  • 日本テレビ旧録版:初回放送 1975年10月8日(前編)、15日(後編)『水曜ロードショー』

  • 日本テレビ新録版:初回放送 1988年1月1日 『金曜ロードショー』

  • テレビ東京版:初回放送 2000年1月3日 20世紀名作シネマ

  • 日本語吹き替えのワーナー版は、ワーナー発売のVHSとDVD(1枚組)とBDに収録。


日本テレビ新録版は、ワーナー発売のスペシャル・エディション(4枚組)に収録。




















Vivien Leigh as Scarlett OHara in Gone With the Wind trailer.jpg

Clark Gable as Rhett Butler in Gone With the Wind trailer.jpg

ヴィヴィアン・リー

クラーク・ゲーブル

Olivia de Havilland as Melanie Hamilton in Gone With the Wind trailer.jpg

Leslie Howard as Ashley Wilkes in Gone With the Wind trailer.jpg

オリヴィア・デ・ハヴィランド

レスリー・ハワード


スタッフ



  • 監督:ヴィクター・フレミング

  • 製作:デヴィッド・O・セルズニック

  • 音楽:マックス・スタイナー


スカーレット役選びが難航したこと、プロデューサーのセルズニックが自らの意を通すために断行した度重なる脚本家や監督の交代劇などその製作過程には数々の逸話が残されている。


監督は当初ヒューマンドラマの名匠ジョージ・キューカーだったがセルズニック側の期待していたような迫力を出せず、ヴィクター・フレミングに交代した。このフレミングを推したのはクラーク・ゲーブルであったと後にオリビア・デ・ハヴィランドは語っている。フレミングはアクションとスペクタクルを撮るのがうまかったのである。


さらに、映画製作の終盤で一時サム・ウッドが監督になった。過労のためピリピリしていたフレミングに、セルズニックがあれこれ口を出したためフレミングが精神的に参ってしまったと言われる。そしてフレミングが1か月後に戻ると、今度はセルズニックは監督を2人立てることにして、例えば午前中はフレミングがして、午後はウッドがするという具合であった。こんな状態になると作品の統一性がなくなるはずだが、そうはならなかったとデ・ハヴィランドは語っている。それほどにセルズニックは気配りしながら撮影を進めていった。しかし最初にメガホンを取ったキューカーに、デ・ハヴィランドもヴィヴィアン・リーも隠れてこっそり演技指導を受けていた。デ・ハヴィランドは後にニューズウィーク誌のインタビューで「あの映画にはジョージ(キューカー監督)の影響が隅から隅まで染み込んでいる」と語った。[4]


なお、この映画が完成してわずか5年後1944年に、セルズニックは本作の一切の権利をMGMに売却した。現在は他のMGM作品(1985年以前)と同様タイム・ワーナーに版権がある。


またマックス・スタイナーによるテーマ曲『タラのテーマ』は、格調高いナンバーとして映画音楽の古典となっている。アカデミー作曲賞の候補にもなったが受賞は逃した[5]



受賞歴


  • 1939年 第12回アカデミー賞


作品賞:風と共に去りぬ

監督賞:ヴィクター・フレミング

主演女優賞:ヴィヴィアン・リー

助演女優賞:ハティ・マクダニエル

脚色賞:シドニー・ハワード(英語版)


撮影賞(カラー):アーネスト・ホーラー(英語版)レイ・レナハン(英語版)

室内装置賞(美術賞):ライル・ウィーラー


編集賞:ハル・C・カーン、ジェームズ・E・ニューカム

特別賞:ウィリアム・キャメロン・メンジース(英語版)(劇的な色彩の使用に対して)
  • ノミネートのみ



主演男優賞:クラーク・ゲイブル


助演女優賞:オリヴィア・デ・ハヴィランド


作曲賞:マックス・スタイナー

特殊効果賞(視覚効果賞):ジャック・コスグローヴ(英語版)フレッド・アルビン(英語版)アーサー・ジョンズ(英語版)


音響賞:トーマス・T・モールトン




  • 1939年 第5回ニューヨーク映画批評家協会賞

女優賞:ヴィヴィアン・リー

アカデミー賞作品賞のオスカー像はのちに競売に出されて、マイケル・ジャクソンが1999年6月に150万ドル(約1億5750万円)で落札した。マイケルによると「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。



アメリカ合衆国での公開




  • 1939年12月15日にアトランタに於いて初公開して、そのワールド・プレミアには、南北戦争の南軍兵士の生存者が招待されて、初公開を報じた当時のニュース映画にもその模様が映っている。

  • このニュース映画の映像は36年後の1975年10月8日に日本テレビ系「水曜ロードショー」で世界初のテレビ放映をした時に、冒頭の水野晴郎の解説の中で紹介され、アトランタでのワールドプレミエでクラーク・ゲーブルが演壇で挨拶しているシーンを映して、水野晴郎はこの時に元南軍兵士が参加していたと話していた。

  • 「二度と製作することができない豪華さ」と喧伝され、アメリカ映画協会が選出した「アメリカ映画ベスト100」では1998年は4位、2007年は6位で常に上位にランクされるように映画史上屈指の名作の1つと評される[6]

  • アメリカ国内での興行収入は1億9867万6459米ドルであり、チケット価格のインフレ調整を行うと第1位になる[7]



日本での公開




日本で『風と共に去りぬ』のチケットを買おうとしている人たち(1952年)




  • 日本での初公開は1952年9月4日[8]。当時ロードショーの入場料金は80円の時代であったが、この「風と共に去りぬ」の初公開は前評判が高く、300円の席と500円・600円の席があり、それでも売れて満員であったと言われている[9]

  • 映画で描かれる南部の栄光と南北戦争敗北による没落から見事経済的に成功するものの精神的な幸福感を得られないヒロイン・スカーレットの姿が太平洋戦争の戦後復興の途上にありながらも大義や志を失った当時の日本の姿と一致したこともあって、当時高い入場料であるにも拘らず大ヒットロングランとなった。高度経済成長以降でもたびたびリバイバル上映されている。製作当時は普通に35mmスタンダードサイズであるが、後にコマの上下をカットして中央を横に広げたワイドスクリーン版も登場し、さらに2005年以降は、デジタルリマスター版での公開もなされている。


  • 太平洋戦争の緒戦において、日本軍による被占領地となった上海、シンガポール、マニラなどで、主に軍隊関係(陸軍中野学校出身者)の日本人がこの作品(他、ディズニー・アニメ映画「ファンタジア」)を見る機会を得たが、「こんな映画を作る国と戦争しても勝てない」と衝撃を受けたという。小津安二郎や徳川夢声もシンガポールでこの映画を観ている。その評判が噂を呼んで、東京にフィルムを空輸して軍関係者のみの試写会が行われた[10]。東京大学でも上映会があり、学生時代の江崎玲於奈が観たという[11]。終戦直前に桃井真がこの映画を観ている。

  • また日本では1966年に世界で初めて舞台化された。



日本でのテレビ放映




  • 1975年10月8日と10月15日に日本テレビの『水曜ロードショー』で前後編に分けて「永遠の超大作完全放送『風と共に去りぬ』」の題名で世界で初めてテレビで放映され(「世界初TV放送」を宣伝文句にしていた)、33.0%の視聴率を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)[12]。日本テレビは放送権を6億円で購入したとされる[12]


  • 1979年10月3日と10月10日に同じ『水曜ロードショー』で「いま甦る永遠の超大作『風と共に去りぬ』」の題名で再放送された。


  • 1988年1月1日(金曜日)には、『金曜ロードショー』(『水曜ロードショー』の後身)の正月特別企画および「日本テレビ開局35年記念特別番組」の一環として吹き替えを新録し、18:00 - 22:51枠で放送された[13]



エピソード



  • 「世界中で必ずどこかの町で常に上映されている」という伝説があるが、これはそれくらい大ヒットし現在でも人気があるという比喩である。

  • 有名なヒロインの最後のセリフは「After all, tomorrow is another day.(結局、明日は別の日なのだから)」である。従来はこれを「明日は明日の風が吹く」と訳すことが多かったが、最近ではより原文に近い「明日という日がある」と訳されることが多い。

  • アメリカでより有名なセリフは、この直前にレットが去り際に吐く捨てゼリフである。スカーレットに「これから私はどうしたらいいの?」と聞かれたレットは、「Frankly, my dear, I don't give a damn.(知らないね、勝手にするがいい)」と振り向きざまに言う。字幕や吹き替えではそれほどきついセリフではないものの、英語の「damn」は実際は強い罵りの言葉で製作当時は映画において使うべきではない言葉(いわゆる禁止用語)と考えられていた。しかし原作のセリフを一言も変えないというセルズニックは、プレミアに先立つ2ヶ月前の1939年10月にHays Officeに手紙を書くとともに様々な手を尽くして、5000ドルの罰金を払って使用を認められた言われている。またこれに対して、1939年に11月1日に制限付きでの使用を認めた修正案が通過したことから、罰金の話は伝説と考える人もいる[14]。2005年、アメリカ映画協会はこれを「最も記憶に残る映画のセリフ」に選んでいる。また、ザッツ・エンターテインメントpartIIの名画の名シーンセクションにこのセリフを言う場面が登場する。

  • この作品がアカデミー賞を受賞することが授賞式で発表される前に新聞社が発表してしまった事件が起こったため、従来新聞社にはあらかじめ知らせてあったアカデミー賞の受賞結果は授賞式でプレゼンターが名前を読み上げる時点まで厳重に管理するようになった。

  • 原作では登場するウェード、エラ、ディルシー、ハネー、ウィル、アーチはこの映画には登場しない。原作には、人種問題や奴隷制の描写について問題になると思われる部分が多々あったため、映画化に際してそのような箇所は大きく省かれ、登場人物についても何人かの黒人奴隷が省略されている。デヴィッド・O・セルズニックは、「ぼくはどんな反黒人映画も作りたくない。われわれの映画では、黒人の扱いに極力、注意しなければならないんだ」と語ったという[15]


  • 1992年には、原作(新潮文庫全5巻)と同じ装丁で、『写真集 「風と共に去りぬ」』(ジュディ・キャメロン/ポール・J・クリストマン、高橋良平訳)が、刊行されているが短期間で品切となった。

  • 敗戦の色濃い南軍に戻って反撃しようとするレットが引用するのはリチャード・ラヴレイス(Richard Lovelace)の「ルカースタへ」(To Lucasta, Going to the Warres)である。

  • アトランタの陥落後、故郷タラを目指すスカーレットが思い出すのはアーネスト・ダウスン(Ernest Dowson)の「シナーラよ!」(Non Sum Qualis Eram Bonae sub Regno Cynarae)である[16]

  • 『それいけ!アンパンマン』の原作者であるやなせたかしは、本作品を、いくつかのキャラクターの下敷きとした(詳細は、それいけ!アンパンマンの記事を、参照のこと)。



版権とDVD


本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に著作権表記が無かったため公開当時の米国の法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、米国に於いてはパブリックドメインとなった(このためコモンズに高解像度のスクリーンショット、ウィキクオートにセリフの抜粋が収録されている)。1989年にはアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。


ワーナー・ホーム・ビデオから発売されたVHS版は日本でのリリースが米国に先行する形となり日本語字幕版を逆輸入するケースが相次いだため、本国でのリリースが前倒しになった。またこの件の影響もあり、DVDは北米と日本でリージョンをわけられることになった。


日本においては著作権の保護期間が完全に終了したことから(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)、複数の会社から激安DVDが発売されている。正規盤DVDは通常版と限定版があり、レンタル店などに置かれている通常版は両面1層なので再生中に裏返す必要がある。セルのみの流通になっている限定版は4枚組の構成で、本編2枚と特典2枚。特典の内容は『風と共に去りぬ・幻のメイキング 史上最大の名画はこうして生まれた』と題されたメイキング映像である。また、それらの特典は付いていないが正規盤BDは片面2層でディスクを裏返したり入れ替えたりせずに見ることができる。



脚注





  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)97頁


  2. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)181頁


  3. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)241頁


  4. ^ 「ニューズウィーク」日本版 ≪映画ザ・ベスト300≫19P 今だから語る名作の舞台裏 オリビア・デ・ハビランド 2009年9月5日発行 Newsweek 参照


  5. ^ スタイナーはアカデミー作曲賞に26回ノミネートされ3回獲得しているが、もっとも有名な『風と共に去りぬ』は受賞できなかった。


  6. ^ 1998年も2007年も1位は「市民ケーン」で、2位・3位が「ゴッドファーザー」と「カサブランカ」で上下している。1998年には「風とともに去りぬ」は4位であったが、2007年には「レイジングブル」と「雨に唄えば」が4位と5位を占めた。「ニューズウィーク」日本版 ≪映画ザ・ベスト300≫13P 2009年9月5日発行 Newsweek 参照


  7. ^ BOX OFFICE MOJO


  8. ^ 「昭和シネマ館~黄金期スクリーンの光芒~」80P 紀田順一郎著 小学館 2008年12月発行


  9. ^ 「昭和シネマ館~黄金期スクリーンの光芒~」80P参照 著者の紀田順一郎はこの日本初公開初日に東京有楽座で見たが、この料金の高さに驚いたけれど、300円席がすぐに売り切れたことに驚いたと述べてている。


  10. ^ 小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』P.72


  11. ^ 小林信彦『映画×東京とっておき雑学ノート』P.97及び『日本経済新聞』2007年1月10日付け

  12. ^ ab引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、130頁。ISBN 4062122227


  13. ^ 「完璧版 テレビバラエティ大笑辞典」(白夜書房)79頁(同本では11 - 81頁で昭和元日の新聞ラ・テ欄を掲載) 2003年


  14. ^ 『Gone with the Wind The Difinitive illustrated History of the Book, the Movie, and the Legend』 


  15. ^ 青木冨貴子 『「風と共に去りぬ」のアメリカ ―南部と人種問題』 (岩波新書、1996年)


  16. ^ この詩はフレデリック・ディーリアスの楽曲「シナーラ 」にもなっているし、『キス・ミー・ケイト』のためにコール・ポーターがこの詩に基づいてAlways True to You in My Fashionを作曲した。




外部リンク












  • 風と共に去りぬ - allcinema


  • 風と共に去りぬ - KINENOTE


  • Gone with the Wind - オールムービー(英語)


  • Gone with the Wind - インターネット・ムービー・データベース(英語)











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