冬戦争
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年9月) |
冬戦争 | |
---|---|
タイペレでマキシム機関銃を構えるフィンランド軍兵士(フィンランド軍司令部写真センター) | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年11月30日 - 1940年3月13日 | |
場所:フィンランド東部 | |
結果:ソビエト連邦側の勝利、モスクワ講和条約 フィンランドの領土喪失により翌年継続戦争開始 | |
交戦勢力 | |
フィンランド | ソビエト連邦 フィンランド民主共和国 |
指導者・指揮官 | |
リスト・リュティ カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム | ヨシフ・スターリン キリル・メレツコフ クリメント・ヴォロシーロフ セミョーン・チモシェンコ |
戦力 | |
歩兵 250,000 戦車 30 航空機 130 | 歩兵 1,000,000 戦車 6,541 航空機 3,800 |
損害 | |
戦死 24,923[1] 戦傷 43,557[1] 捕虜 1,000 航空機 62 | 戦死・行方不明 126,875 戦傷 264,908 捕虜 5,600 航空機 1,000以上 戦車 2,268 |
| |
冬戦争(ふゆせんそう、芬:talvisota)は、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した戦争である。フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。
両国間の戦争が1941年6月に再開されたため、第1次ソ・芬(ソ連・フィンランド)戦争とも言う。なお、後続の戦争は第2次ソ・芬戦争、あるいは継続戦争と称される。
目次
1 概要
2 戦争の背景
2.1 外交交渉(1938-1939春)
2.2 外交交渉(1939年秋)
3 両軍の戦闘序列(1939年11月30日)
3.1 フィンランド軍
3.2 ソ連軍
4 戦争の推移
4.1 1939年
4.2 1940年
4.3 国際社会の反応
4.4 停戦
5 モスクワ講和条約
6 影響
7 脚注
8 関連文献
9 関連項目
概要
1939年8月23日の独ソ不可侵条約の秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、ソ芬間の交渉は、11月に決裂した。
ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、1939年11月30日にフィンランドに侵攻した。明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年12月14日に国際連盟から追放されるが、戦争を終結させる上では何らの実効性も持たなかった。ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ3倍[要出典]の兵力を投入したが、結局マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられた。
イギリス、フランス等は、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産にとって重要なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣をノルウェーなどスカンジナヴィア半島北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。フィンランドは1940年3月まで戦い抜くが、フィンランド第二の都市であるヴィープリを含む国土の10%、工業生産の20%が集中する地域をソ連に譲り渡すという苛酷な条件の講和条約を結び、3月13日に停戦は成立した。
この戦争によりソ連軍の弱体ぶりが諸外国に知れ渡ることになり、特にアドルフ・ヒトラーのソ連侵攻の決断に影響を与えたと言われている[2]。
戦争の背景
歴代のソビエト政権にとって、革命発祥の地であり、ソ連第2の大都市であるレニングラードと近すぎるフィンランド国境は、重要な安全保障上の課題であった。1930年代後半になり、ナチス・ドイツの膨張政策があきらかになるにつれ、もはや、この問題は、スターリンにとって、座視できるものではなくなった。
外交交渉(1938-1939春)
そこで、ソ連側は、1938年4月より、在ヘルシンキ大使館員ボリス・ヤルツェフ(NKVD職員)を通じて、フィンランド政府と非公式な交渉を始めた。今日、伝えられているこの時の最終的なソ連側の要求は、
- レニングラード湾上の4つの島嶼の割譲
- 上記の代償として、ラドガ湖の北の東カレリアで、フィンランドとの係争地の一部をフィンランドへ割譲
というものであった。しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春には、行き詰まってしまった。
マンネルヘイムは、既に現役を引退してアドバイザーの立場であったが、ソ連の要求を受け入れるべきだ、としたが、政府内の多数派意見とはならなかった。
1939年5月には、ソ連では、比較的、西側と協調路線であったマクシム・リトヴィノフは外務人民委員(外相相当)を更迭され、スターリンは、後任にヴャチェスラフ・モロトフを起用した。
外交交渉(1939年秋)
1939年8月23日、ソ連とナチス・ドイツの間に相互不可侵条約が調印されたが、この協定には、東欧を独ソの勢力圏に分割する秘密議定書が含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。
ソ連のポーランド侵攻から、まもなくバルト三国の外相は、モスクワに呼ばれ、9月29日にエストニア、10月5日にラトビア、10月10日にはリトアニアが、領土内にソ連軍基地の設置を認める自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。
バルト三国との交渉より、やや遅れて、ソ連からフィンランドに二国間の懸案の問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉が10月11日からモスクワで始まった。この時に提示されたソ連側の要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であった。
- レニングラード湾(フィンランド湾)の4つの島嶼の割譲
- カレリア地峡のフィンランド国境を、ヴィープリの東30キロメートルまで西へ移動
- カレリア地峡の防衛線(マンネルハイム線)の防衛設備の撤去
- ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5000人のソ連軍の駐留
- 上記、駐留ソ連軍の交代の為のフィンランド領内の鉄道による通行権
- 以上の代償として、ソ連は、ラドガ湖の北の東カレリアでフィンランドと係争となっている領域を大きく上回る地域をフィンランドへ割譲
このソ連側の要求については、フィンランド側では、2つの考えがあった。
ユホ・エルッコ外相らは、この要求が最後という保証はなく、マンネルハイム線を撤去してしまえば、次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。よって、ソ連側の要求には、応じられない。
一方、パーシキヴィ(モスクワ派遣交渉団代表),ベイノ・タンネル(蔵相、社会民主党党首),マンネルハイムらは、フィンランド軍の現状や欧州の情勢からして、ソ連の要求を峻拒することは出来ないので、ソ連の要求を受け入れよ、という意見であった。
結局、フィンランド政府は、レニングラード湾口の島嶼の割譲とカレリア地峡の国境線を若干西へ移動させる、譲歩案を示したが、ソ連側はそれには応ぜず、交渉は11月5日には、決裂してしまった。
マンネルハイムは、交渉の決裂後も政府に再交渉を求めていたが、11月26日には、とても現政権の国防外交政策について責任は持てないとして、顧問職の辞表を政府に提出した。
両軍の戦闘序列(1939年11月30日)
フィンランド軍
- 国軍最高司令部 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥
- 第6師団 (司令部予備)
- カレリア地峡軍 フーゴ・オステルマン中将
- II軍団 ハロルド・オーキュスト中将 (地峡の南、フィンランド湾側)
- 第1師団
- 第4師団
- 第5師団
- 第11師団
- III軍団 エリック・ハインリッヒス中将 (地峡の北、ラドガ湖側)
- 第9師団
- 第10師団
- II軍団 ハロルド・オーキュスト中将 (地峡の南、フィンランド湾側)
- IV軍団 ジュロー・ヘイスカネン少将 (ラドガ湖北岸からIlomantsiまで)
- 第12師団
- 第13師団
- 北方グループ ヴィリオ・ツオムポ中将 (バレンツ海沿岸からIlomantsiまで)
- 種々の独立大隊、国境警備大隊
ソ連軍
- レニングラード軍管区 キリル・メレツコフ大将
- 第7軍 (レニングラード → ヴィープリ → ヘルシンキ)
- 第8軍 (ルウキ → スオムッサルミ → オウル)
- 第139師団
- 第163師団
- 第168師団
- 第9軍 (カンダラクシャ → サッラ → ケミヤルヴィ → ロヴァニエミ)
- 第88師団
- 第122師団
- 第14軍 (ムルマンスク → ペツァモ → ロヴァニエミ)
- 第104師団
戦争の推移
1939年
1939年11月26日午後、カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村で赤軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。この事件はマイニラ砲撃事件(en:Shelling of Mainila)と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。しかしソ連は、11月27日にソ芬不可侵条約の破棄を通告。11月29日に国交断絶が発表された。
11月30日、ソ連は宣戦布告なしに23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機[要出典]を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。ソ連は、白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のパンフレットが大量にばらまかれた。
その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。
キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。
12月1日、開戦当日の夕方にはソ連軍に占領された国境地帯の町テリヨキ(フィンランド語: Terijoki、現在のゼレノゴルスキ ロシア語: Зеленогорск)で、1918年の内戦で敗れてソ連に亡命していた共産党員オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国が、ソ連のお膳立てで樹立され、ソ連は、この政府がフィンランド人民を代表する唯一の正当な政権であると宣言した。
ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入。第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し第8軍は第7軍の支援を担当した。第9軍はフィンランドを南北に分断するためスオムッサルミの攻略を目指し第14軍はラップランドへと進撃した。11月30日ソ連空軍は首都ヘルシンキを空爆、赤軍はフィンランドへの侵攻を開始した。フィンランド国防軍最高司令官マンネルヘイムは第9師団に赤軍第9軍への反撃を命じ第16連隊を主力とする独立作戦集団を編成、タルヴェラ大佐に指揮を任せラドガ湖へ進撃中の赤軍第8軍に反撃を命じた。赤軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線の突破を試みたが、フィンランド陸軍第10師団の反撃により攻撃は失敗し甚大な被害を受けた。ラドガ方面ではトルヴァヤルヴィに進出した赤軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され1000名以上の犠牲者を出し敗走した。そこで第8軍はコッラー河を渡河して守りの手薄なロイモラへ4個師団+1個旅団の大戦力を投入し突破作戦を開始した。しかしコッラ防衛陣地を守るフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ第8軍は進撃停止を余儀なくされた。ラーテ街道(ラッテ林道)を進撃中だった赤軍第9軍の第163師団はフィンランド軍第9師団に包囲され孤立した。こうして赤軍の攻勢は全戦線でくいとめられ一部の部隊は分断され包囲殲滅の危機にさらされていた。戦果をあせったレニングラード軍管区司令官メレツコフは12月16日マンネルヘイム線への総攻撃を再開。赤軍第7軍がスンマ要塞線への攻撃を開始したがフィンランド軍の守りは固く甚大な損害をうけ総攻撃は失敗に終わった。その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され損害のみが増え続けた。一方赤軍第9軍は包囲された第163師団を救援するため第44機械化師団を派遣した。第44機械化師団はラーテ街道で雪に進軍を阻まれ立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受けて壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され12月9日から開始されたスオムッサルミの戦いはフィンランド軍の完全勝利に終わった。赤軍第9軍の損害は戦死・行方不明者2万4000人に達し壊滅的敗北を喫した。スターリンは、すべての攻勢作戦の中止を命令した。
1940年
スターリンは、ジダーノフ、ヴォロシーロフを軍事作戦から外し、北西方面軍司令官には、セミョーン・チモシェンコを選んだ。チモシェンコは、新任務を受ける際に、マンネルハイム線の突破を約束したが、それは高価なものになるだろう、とスターリンに告げた。新司令官のもと、28センチ榴弾砲やKV重戦車を含む大量の重火器と兵力の集積が進められた。また、マンネルハイム線と似た地形陣地を自領内に作り、攻撃演習までした。
攻勢作戦の準備が完了した2月1日に、カレリア地峡で攻勢が再開された。2月10日までは空爆と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、フィンランド軍を圧倒しマンネルヘイム線の突破に成功した。
この節の加筆が望まれています。 |
国際社会の反応
国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。フィンランドからの提訴を受けて、12月14日に、国際連盟はソ連を追放した。当時、第二次世界大戦は「まやかし戦争」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。イギリスでは労働党が、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤いツァーリ(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。アメリカ合衆国はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方、ソ連に対しては同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。
また、アメリカやカナダに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻り義勇兵となった者もいた。後に俳優となったクリストファー・リーもその一人である。隣国スウェーデンからは軍事物資、資金、人道支援の他に、9千人余りの義勇兵が派遣された。ソ連軍の戦闘機は彼ら義勇軍の乗った輸送列車も攻撃した。
フランスでは反ソ感情が高まり、ダラディエ首相はドイツに石油を供給しているソ連のバクー油田をトルコの協力を得て爆撃する計画をイギリスに提案している。しかし英仏両国は対独戦の最中であり、ソ連にも宣戦布告をして戦線を拡大することは避けたく、イギリスはこの提案を拒否した。
ドイツは、外務省が冬戦争の開始前から秘密議定書の内容を遵守する事を明確にし、全ての在外外交官に対してソ連側の立場を支持するように訓令しており、もはや頼みにならなかった。しかし、他に頼みとするスカンジナヴィア諸国や連合国の各国政府の反応もフィンランドへの積極的な支持とはいかなかった。戦争に巻き込まれる懸念のほか、自国の戦争準備に手一杯であり、傍観するか中立を貫いた。しかし、ヘルシンキにいた外国の特派員が「雪中の奇跡」としてフィンランドの予想外の善戦が報じられた。1940年2月、英仏はポーランド亡命政府の部隊も加えた連合軍でノルウェーのナルヴィク港に10万人の兵士を上陸させ、スウェーデン経由でフィンランドを支援することを名目にドイツへの鉄鉱石の輸出を停止させる作戦計画で一致した[3]。しかし、ノルウェーとスウェーデンは、これを拒否し、作戦はペーパープランの域を脱することはなかった。スウェーデンは冬戦争で中立を宣言していたわけではないが、戦争開始直後にドイツ政府から、スウェーデンが何らかの形でフィンランド側に加勢すれば、直ちにドイツ・スウェーデン両国が戦争状態に入るだろうと警告されていた。
1940年1月に、フィンランドのベイノ・タネル外相がスウェーデンの支援を求めストックホルムを訪問した際には、スウェーデン政府の冷淡な対応が知れ渡り、スウェーデン国内に政府非難の声が広がり、沈静化の為に、国王が国民向けに声明を出す事態となった。
冬戦争末期、フィンランドからの要請があれば、英仏より50,000名の兵士が派遣されることになっていたが、実際にフィンランドに向かうのは6,000名で、残りはスカンジナビア半島北部の鉄鉱石産出地域の防衛の任に就くことになっていた。戦後明らかになったことによれば、連合国の遠征部隊の司令官はソ連軍との直接的な戦闘は避けるように命令されていた(これにはイギリス政府のウィンストン・チャーチルの意向があった[4])。このように、他国からの支援のほとんどは、全く不十分であるか、時期を逸していた。
また、世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式な兵器ばかりであり数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついぞ行われなかった。
後にモスクワ講和条約が結ばれると、フランスのダラディエ政権はフィンランド支援失敗の責任を追及され辞職に追い込まれた。
停戦
ソ連指導部は、戦争開始から1ヶ月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。死傷者の増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。
しかし、スウェーデン王グスタフ5世がフィンランド支援のために正規軍を派遣しないことを公式に表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的な判断により、講和による決着を考えていた。これを受けた政府は2月29日より講和の交渉再開を決定した。同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。
和平交渉の結果、両国は3月6日に停戦協定に達した。4ヶ月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。ソ連軍の戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。
フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。
モスクワ講和条約
1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。
フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも多いのではないかとさえ言われた。
影響
モスクワ講和条約を結ぶために、ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年3月12日に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるカレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に統合され廃止された。その後、なんとか独立を維持していたバルト三国は、1940年6月から8月の間に、武力でソ連により併合され、それぞれソビエト連邦内共和国となった。
1940年6月には、フランスはドイツに降伏し、西側でドイツと戦っているのは、イギリス連邦諸国だけとなった。フィンランドは、冬戦争後、中立維持のためのスウェーデンとの軍事同盟を模索したが、ソ連とドイツの反対で、これは実現しなかった。その結果、フィンランドは、軍事経済援助の見返りに軍事基地の提供などを行い、ドイツ軍はフィンランド領内に駐留を始めた。これは、明らかな独ソ不可侵条約の秘密議定書に対する違反で、のちに独ソ間の外交問題になった。1941年6月22日のドイツのソ連侵攻にはフィンランド軍は参戦しなかったが、ソ連軍がフィンランド領を空爆した為、6月25日に、フィンランドはソ連に宣戦し、継続戦争が始まった。
脚注
- ^ abTrotter, William R. Chapter 24 Aftershocks
^ 梅本弘『雪中の奇跡』エピローグ 268頁
^ Trotter, William R. (2002) [1991]. The Winter War: The Russo–Finnish War of 1939–40 (5th ed.). pp. 237-238. New York (Great Britain: London): Workman Publishing Company (Great Britain: Aurum Press). ISBN 1-85410-881-6.
^ Edwards, Robert (2006). White Death: Russia's War on Finland 1939–40. London: Weidenfeld & Nicolson. p. 145. ISBN 978-0-297-84630-7.
関連文献
- 中山雅洋『北欧空戦史』(学研M文庫、2007年) ISBN 978-4-05-901208-5
梅本弘『雪中の奇跡』(大日本絵画、1994年新装版) ISBN 4-499-20536-0
- 日本語で読める冬戦争の記録としては最もまとまっている。
- 植村英一『グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの白い将軍』(荒地出版社、1992年) ISBN 4-7521-0069-X
- William R. Trotter『THE WINTER WAR : The Russo-Finnish War of 1939-40』(Aurum Press Ltd、2003年)ISBN 1-854-10932-4
- ニコライ・トルストイ 著\新井康三郎 訳『スターリン その謀略の内幕』(読売新聞社、1984年) ISBN 4-643-54360-4
- 齋木伸生 著『冬戦争 (Historia Talvisota) 』(イカロス出版、2014年)
Trotter, William R. (2000). A FROZEN HELL: The Russo–Finnish War of 1939–40. Algonquin Books of Chapel Hill. ISBN 1-565-12249-6.
関連項目
我らを受け入れよ、麗しいスオミよ - ソ芬戦争を題材としたソ連の軍歌。- 継続戦争
- ラップランド戦争
- 戦争一覧
- シモ・ヘイヘ
ヴァラーム修道院 - 戦場となり戦渦に巻き込まれた正教会の修道院。
クリストファー・リー - フィンランド側に義勇兵として参加。
カール・グスタフ・フォン・ローゼン -フィンランド側に義勇兵として参加。
|