御徒町
御徒町(おかちまち)は1964年まで存在した東京都台東区の地域名。現在も御徒町・仲御徒町などの地名が鉄道の駅名として使われるなど、通称として使われている。
目次
1 概要
2 交通
3 地名の由来
3.1 住居表示以前の地名
4 主な観光場
5 ギャラリー
6 脚注
7 関連項目
概要
御徒町駅周辺5駅を核とした地域・通称。東京7ヶ所の副都心、上野・浅草副都心を形成する拠点地域のひとつでもある[1]
江戸時代秋田藩が竹町(御徒町の北側)現在の佐竹商店街近辺にあり、幕末後野ッ原になった。その後明治の後半から大正にかけて、この地には寄席、見世物小屋が並び東京の一大歓楽街を成していた。寿亭、蜻蛉軒、久本亭のほかに射的、玉ころがしなどもあった。料理屋、牛肉、天ぷら、おでん等の多数の屋台が集まり大変賑わったという。その後昭和に入り御徒町駅ができると、もっぱら西側である上野広小路方面が栄えた。詳細は御徒町駅参照
交通
JR山手線・京浜東北線の御徒町駅、東京地下鉄銀座線の上野広小路駅、日比谷線の仲御徒町駅、都営地下鉄大江戸線の上野御徒町駅、大江戸線・つくばエクスプレス線の新御徒町駅が通る。
地名の由来
江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。
御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す
。
なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。
御徒はそれぞれ組に属し、御徒組は本丸15組、西ノ丸5組が存在した[2]。各組の構成は頭1名、組頭2名、御徒28名から成り、将軍の行列の先導や幕府御用の警護、江戸城中の雑用を職務とし、組単位で屋敷地を拝領し、その組屋敷で暮らした[2]。『正保江戸図』(1644)には、地理的に軍事上の要所でもあった下谷・浅草に組屋敷があった[2]。
住居表示以前の地名
1911年までの地名 | 1964年までの地名 | 現在の地名 | 改称時期 |
---|---|---|---|
下谷御徒町一丁目 | 御徒町一丁目 | 台東一丁目・台東二丁目・台東三丁目 | 1964年1月1日 |
下谷御徒町二丁目 | 御徒町二丁目 | 台東三丁目・台東四丁目 | 1964年1月1日 |
下谷御徒町三丁目 | 御徒町三丁目 | 東上野一丁目・東上野二丁目 | 1964年10月1日 |
下谷仲徒町一丁目 | 仲御徒町一丁目(全域) | 上野五丁目 | 1964年10月1日 |
下谷仲徒町二丁目 | 仲御徒町二丁目(全域) | 上野五丁目 | 1964年10月1日 |
下谷中御徒町三丁目 | 仲御徒町三丁目 | 上野三丁目・上野五丁目・上野六丁目 | 1964年1月1日 |
下谷仲徒町四丁目 | 仲御徒町四丁目(全域) | 上野六丁目 | 1964年10月1日 |
主な観光場
- アメヤ横丁
- 上野松坂屋
- 多慶屋
吉池 - 鮮魚を中心とした食料品総合小売店
キムチ横丁 - 東上野コリア・タウン。旧称・上野親善マーケット。
ギャラリー
御徒町駅(2010年12月6日撮影)
アメヤ横丁 御徒町駅側入口(2010年12月6日撮影)
アメヤ横丁 上野駅側入口(2010年12月6日撮影)
脚注
^ [1]
- ^ abc『駅名で読む江戸・東京』大石学、PHP研究所, 2003
関連項目
- 浅草
- 上野
- 麻生美代子
- 萩本欽一
- 天海祐希