トニー・ブルックス
トニー・ブルックス | |
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基本情報 | |
フルネーム | チャールズ・アンソニー・スタンディッシュ・ブルックス |
国籍 | イギリス ( イングランド) |
出身地 | 同・チェシャー州 デューキンフィールド |
生年月日 | (1932-02-25) 1932年2月25日(86歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1956-1961 |
所属チーム | '56,'61 BRM '57-'58,'59,'60 ヴァンウォール '59 フェラーリ '60 クーパー |
出走回数 | 38 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 10 |
通算獲得ポイント | 75 |
ポールポジション | 3 |
ファステストラップ | 3 |
初戦 | 1956年イギリスGP |
初勝利 | 1957年イギリスGP |
最終勝利 | 1959年ドイツGP |
最終戦 | 1961年アメリカGP |
トニー・ブルックス(Charles Anthony "Tony" Standish Brooks 、1932年[1]2月25日 - )は、イギリスの元F1ドライバー[1]。
目次
1 経歴
1.1 1955年
1.2 1956年
1.3 1957年
1.4 1958年
1.5 1959年
1.6 1960年
1.7 1961年
2 F1での年度別成績
3 注釈
4 出典
5 参考文献
6 関連項目
経歴
元々は歯科医生という経歴を持ち、レースは趣味[1]で、クラブイベントからレースをスタートした。
1955年
1955年のル・マン24時間レース[1]でアストンマーティン[1]DB3Sの25号車に乗ったのが、国際レースへの最初の出場となった[注釈 1]が、バッテリー破損で9時間目にリタイヤとなった[2]。1955年、F2への参戦で、初めてシングルシーター車をドライブした。また同年、コンノートからF1のノンタイトル戦にも参戦した。
1956年
1956年第2戦モナコグランプリにて、BRMからF1に初参戦。予選を13位で通過したが、決勝は走行できずデビューはならなかった。その後、地元となる第6戦イギリスグランプリにて、再びBRMから参戦。予選9位から決勝も走行し、F1デビューを果たした(結果はリタイヤ)。
1956年のル・マン24時間レースではDBR1/250[3]の14号車[3]に乗り、凄まじいエンジン音を出し[3]、ユノディエールで最高速度210.897km/hを記録[3]し、夜中には4位にのし上がる[3]などかなり目立った走り[3]をしたが、24時間目に入ってから7位で走行中[3]ミュルサンヌで[3]リアアクスルが故障[3]しリタイヤとなった[3]。
1957年
1957年は、BRM同様イギリスチームであるヴァンウォール[1]に移籍し、F1本格参戦。初陣となる第2戦モナコグランプリでは、予選4位から2位に入賞、初の表彰台を記録した。アストンマーティン[1]でニュルブルクリンク1000kmレース[1]で優勝[1]した。
形式上組み込まれていたに過ぎない第3戦アメリカグランプリ、ル・マン24時間レースでの負傷が癒えていなかった第4戦フランスグランプリの2戦を欠場後、第5戦イギリスグランプリでは予選3位を獲得。決勝では、エースドライバースターリング・モスとのシェアドライブ[注釈 2][1]ながら優勝を記録し、自身・チームに加え、イギリス車全般においてもF1初となる勝利を、地元で達成する結果となった[注釈 3]。
また最終戦イタリアグランプリでは、最終的にリタイヤとなったものの、初のFLを記録した。
1957年のル・マン24時間レースではDBR1[4]に乗り6位を走行中[4]、朝の2時頃にトニー・ブルックスに交代してすぐテルトルルージュ[4]でコースからはみ出した[4]ところにウンベルト・マリオーリ[4]のポルシェに激突されて病院搬送[4]され、2人とも奇跡的に擦り傷だけで済んだ[4]もののリタイヤとなった。
1958年
1958年もヴァンウォールに残留[1]。チームが開幕戦アルゼンチングランプリを欠場したため、第2戦モナコグランプリが初陣となった。ブルックスはその予選において、自身初のPPを獲得している(決勝はリタイヤ)。
第4戦ベルギーグランプリでは、予選5位から序盤にトップに立ち優勝、単独での初優勝[1]を達成した。その後も第8戦ドイツグランプリ[1]と第10戦イタリアグランプリ[1]で優勝、どちらも予選2位からの勝利だった。
この計3勝などで、ドライバーズランクではマイク・ホーソーン、スターリング・モスに次ぐ3位を獲得し、またチームの初代コンストラクターズタイトル獲得にも貢献。この年引退したファン・マヌエル・ファンジオは、自身去りし後のF1牽引者として、真っ先にブルックスの名を挙げたという。
1958年のル・マン24時間レースではモーリス・トランティニアンと組んでDBR1[5]に乗り3-4位を争っていた[5]が、朝の5時50分頃[5]トランスミッション不調[5]のためミュルサンヌでリタイヤ[5]となった。
この年のTTレースではスターリング・モスと組んで勝利した[1]。
1959年
1959年はヴァンウォールが活動を大幅に縮小し、参戦は第5戦イギリスグランプリのみとなった。ブルックスは、そのレースのみ同チームからエントリーしたが、残りのレースはフェラーリ[1]から出走。開幕戦モナコグランプリで2位に入り、幸先の良いスタートを切った。
シーズン中盤、第4戦フランスグランプリにおいて予選でPPを獲得し、決勝でも優勝[1]。自身初のポールトゥーウィンを達成した。しかしイギリスグランプリをフェラーリのストライキにより欠場しポイントを重ねることができず、これがチャンピオンシップに大きく響いた。2ヒート制となった第6戦ドイツグランプリでも、2度目のポールトゥーウィンを記録しての勝利[1]。この際は、FLも獲得しての完全勝利だった。世界チャンピオンは目の前だったがイタリアグランプリのスタートでクラッチを焼いてしまい、結果としてタイトルを逃した[1]。最終戦アメリカグランプリでの3位により、ジャック・ブラバムに次ぐランキング2位[1]でシーズンを終了。これが自身のベストランクとなった。
1960年
1960年はBRPに移籍し、プライベーター使用のクーパーから参戦。しかし前年同様、ヴァンウォールが第6戦フランスグランプリの1戦のみエントリーし、そのレースは同チームから出走した。
ブルックスは第2戦モナコグランプリが初陣となり、そのレースでは予選3位から4位入賞。また第5戦ベルギーグランプリでは、予選2位を獲得している(決勝はリタイヤ)。しかし、他のレースでは下位グリッドに沈み、モナコグランプリ以後の入賞も第7戦イギリスグランプリ・第8戦ポルトガルグランプリにおける2度の5位に留まった。
1961年
1961年はデビューチームであるBRMに舞い戻ったが、前年以上に低迷。完走しても入賞圏外というレースが続き、第6戦ドイツグランプリ終了時点では未だノーポイントであった[注釈 4]。
その後、第7戦イタリアグランプリで5位に入り、シーズン初入賞。続く最終戦アメリカグランプリでは3位に入り、2年ぶりに表彰台に立ったが、結局このレースをもってレースキャリアを終了。29歳での引退だった。その後は歯科医に専念している[1]。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | WDC | ポイント |
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1956年 | オーウェン | P25 | ARG | MON DNS | 500 | BEL | FRA | GBR Ret | GER | ITA | NC (61位) | 0 | |||
1957年 | ヴァンウォール | VW 5 | ARG | MON 2 | 500 | FRA | GBR 1* | GER 9 | PES Ret | ITA 7** | 5位 | 11 | |||
1958年 | ARG | MON Ret | NED Ret | 500 | BEL 1 | FRA Ret | GBR 7 | GER 1 | POR Ret | ITA 1 | MOR Ret | 3位 | 24 | ||
1959年 | フェラーリ | Dino 246 | MON 2 | 500 | NED Ret | FRA 1 | GER 1** | POR 9 | ITA Ret | USA 3 | 2位 | 27 | |||
ヴァンウォール | VW 59 | GBR Ret | |||||||||||||
1960年 | クーパー/ヨーマン・クレジット | T51 | ARG | MON 4 | 500 | NED Ret | BEL Ret | GBR 5 | POR 5 | ITA | USA Ret | 11位 | 7 | ||
ヴァンウォール | VW 11 | FRA Ret | |||||||||||||
1961年 | オーウェン | P48/P57 | MON 13 | NED 9 | BEL 13 | FRA Ret | GBR 9 | GER Ret | ITA 5 | USA 3 | 10位 | 6 |
太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。 (key)
* 印は同じ車両を使用したドライバーに順位とポイントが配分された。
** 印はファステストラップを記録したため、当時の規定で1ポイントが授与された。
注釈
^ 『ハイスピード・ドライビング』p.124は「1954年」とするが、『ル・マンの英国車』pp.54-56「1954」アストンマーティンのドライバーはDB3SがR・パーネル/R・サルヴァドーリ組、P・コリンズ/プリンス・ビラ組、G・ホワイトヘッド/I・ステュワート組、C・シェルビー/P・フレール組、の4台、DB2/4がJ・P・コラス/H・ダ・シルヴァ・ラモスフレール組の1台の計5台であり、トニー・ブルックスの名前は発見できず。イギリス車は他にトライアンフ1台とジャガー4台が出場しているがそちらのドライバーにも見当たらない。ゆえに『ハイスピード・ドライビング』p.124の「1954年」を「1955年」の誤植とし、1955年を国際レースデビューとして扱った。
^ 当時は、チーム内でのマシンの交換が許されており、その場合それぞれに半分のポイントが与えられていた。
^ ただしレース内容は、リタイヤしていたモスが9位を走行していたブルックスと交代した後追い上げるというもので、優勝はモスによる力が大きかった。このため資料によってはブルックスの勝利に加えられていない場合もある。
^ 第5戦イギリスグランプリではFLを記録したが、前年よりFLはポイントの対象外となっていた。
出典
- ^ abcdefghijklmnopqrstu『ハイスピード・ドライビング』p.124。
^ 『ル・マンの英国車』pp.57-59「1955」。
- ^ abcdefghij『ル・マンの英国車』pp.60-63「1956」。
- ^ abcdefg『ル・マンの英国車』pp.64-67「1957」。
- ^ abcde『ル・マンの英国車』pp.68-73「1958」。
参考文献
ポール・フレール著、小林彰太郎・武田秀夫訳『ハイスピード・ドライビング』二玄社
- ドミニク・パスカル著、日沖宗弘訳『ル・マンの英国車』ネコ・パブリッシング ISBN 4-87366-068-8
関連項目
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
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